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2023年3月28日
地域の水田転作
私の住む地域では、春彼岸、旧盆と秋彼岸の年3回、親戚の仏壇参りをする風習が年中行事としてある。今は、ちょうど春彼岸なので、今回は13戸の親戚宅を訪問することにした。今年は根雪の消えるのが早そうだとか、庭木の雪囲い除去が大変な年齢になったなどの、たわいもない会話が多いが、年に数回、親戚と対面することが重要な行事なのだろうと思っている。ときどき、家族の介護とか進学や就職のことが話題になることもある。
今年は、生産資材の高騰が米価に反映されないという水稲作の先行き不安のほか、転作の本作化(畑地化)についての話題が多かった。水稲(主食用米)が作られないということは、営農意欲が削がれていることと同じだと感じている。農業者にとっては、未だ、転作は緊急避難的なものだと実感する訪問になった。
水田転作は昭和45年に開始しているから、今年は53年目になる。現在の対策は、平成26年に開始した「経営所得安定対策等」であって、(異例の)10年目に突入する対策になっている。
昭和50年代から60年代にかけては、潜在生産量が1,300万t超であって、需要量は1,000万tを超えていた。この頃、転作作物の導入と技術支援は、普及現場では、行政対応という理解で業務を行っていたと思う。若い普及員だった自分でさえも実証圃、展示圃などの普及課題をかけ持ちし、時折開催される農業者向け研修会や普及員同士の検討会などの思い出が尽きない。普及の本来業務ではないと苦言を呈する先輩普及員もいたが、転作関連業務をやっていれば、年間の主要な業務が終わったような、そんな職場環境の普及所だった。たしかに、農林水産省から、また、県からの矢継ぎ早の指示があって、時々、普及活動の核心の農業者のことを忘れてしまうほどだった。
この頃、担い手農業者は、土地利用型作物の集団転作のために農業機械のオペレーターとして駆り出されることが多かった。その後、自らの経営に専念するため、法人化の道を歩むようになった農業者も多い。「ボランティア的な営農からの卒業なのだ。地域から少し距離を置いて、生産から販売まで、自己責任で農業経営をやるのが夢だ」と、語ってくれた農業者もいる。地域農業と比較的に関連が弱い、園芸農業に経営をシフトして行くのだった。
この頃は、「村づくり」も記憶に残る。
昭和50年代、60年代は、地域の営農に対する理解や思いが深く、全国表彰を受けた地域もある。多くは、集落の文化や伝統などに根ざした集落活動を行い、営農分野では転作ネタの営農が多かったという特色があったが、担い手農業者の減少により、次第に活動が停滞していった。
平成に入ると、「山形県では村づくりは、事実上終了したといえる」と語るS専門技術の真意が、どの点を指しているかを理解することはできなかった。
栽培の現場は、通称「バラ転」が多かったが、収量性などから判断すると、農業者の技術水準は高かったのだと、今になって思うことがある。その要因を探ってみても、明確に整理することができないでいる。栽培面積が小さく、相対的に栽培管理が行き届いていたのだろうか、と思ったりする。
主食用米の需要量は年々減少し、最近の需要量は700万tを前後で、生産量が600万t台になったとの「生産のめやす」が農林水産省から公表されている。遠くない将来に、小麦の国内需要量と変わらなくなると予想する識者の話を聞くこともある。稲作農家に育った自分でさえ、若かりし頃は2、3杯のおかわりが普通だったが、現在は食べ盛りの若者でも1杯が普通で、「毎食米を食べなくとも良い」と答えることが多いという。簡単に消費の低下とは考えたくはない。学校給食が米飯給食で、コンビニでおにぎり販売があるのに、需要量は激減していく不思議を理解することができない。
東北地域は稲作主産県であるから、米は主食用米とイコールとして語られることが多い。米の収穫量が富の物差しだった昔から米価が著しく低下した現在でも、米に対する熱い思いは農業者の脳裏に刻まれている。それでも、将来の水田の担い手を探す手立てよりも、元気なうちに水田をたたむ「終活」を選択する農業者が多くなったと思う。
種もみの浸漬作業が開始されると、市町村の農業再生協議会(ほとんどの場合)から情報提供された「生産のめやす」を参考に、水田の営農計画書を提出して、本格的な営農がスタートする。
今シーズンは、畑地化支援が施策に加わったことから、農村に顕著な変化が訪れていると感じることが多い。
土地改良区に対しては、次のような相談が多くなっている。
「あと10年の間に営農を止めなければならない年齢なので、水田機能(用排水路や畦畔等)のない、完全な畑地化を行うことによって、精神的に身軽になりたい。後を引き継いでくれる人がいないから、自分が動けるうちに店じまいしたい」(農業者)
「水田のままで維持するという選択肢を、消さないでもらえませんか?」(土地改良区の職員)
「あなたたちも、(土地改良区の)地区除外面積が多くなると、改良区の運営は大変なことは理解できる」(農業者)
「土地改良区の運営も大事だけれど、水利の維持を最優先にして行きたいと、理事会でも議論されている」(土地改良区の職員)
「それでも、(水稲栽培の)田んぼの維持は大変な問題なのだ」(農業者)
土地改良区の職員は、相談に訪れる農業者は高齢者であればこそ、土地改良区の賦課金を負の遺産と考えていると感じることが多いと話してくれた。もちろん、農業者の多くは、いつも考えているのだろうが、この春は、背中を押されたように、根っこの部分を相談に訪れることが多くなったという。
「土地改良区を構成する農業者(組合員)の減少傾向は、いまに始まったことではない。水田の畑作化を促す施策は、農業者に『きっかけ』を作っただけにすぎない。たしかに、水田地帯の水利は根っこの課題だと思う。しかし、農業者(土地改良区組合員)の減少は避けられない現実なので、土地改良区の運営のあり方の議論を促す機会だと考えた方が良い。遅かれ早かれ必要なことだったのだから」と、できるだけ前向きなニュアンスで、土地改良区の職員にアドバイスをしたのだった。
●写真上から
・雪解けとともにフキノトウが採取できるようになった
・フキノトウのパッキング、しまりが良いと高品質
・フキノトウの天ぷら
・フキノトウ味噌
昭和30年山形県金山町の農山村生まれ、同地域育ちで在住。昭和53年山形県入庁、最上総合支庁長、農林水産部技術戦略監、同生産技術課長等を歴任。普及員や研究員として野菜、山菜、花きの産地育成と研究開発の他、米政策や農業、内水面、林業振興業務等の行政に従事。平成28年3月退職。公益財団法人やまがた農業支援センター副理事長(平成28年4月~令和5年3月)、泉田川土地改良区理事長(平成31年4月~現在)。主な著書に「クサソテツ」、「野ブキ・フキノトウ」(ともに農文協)等。