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ときとき普及【54】

2022年12月26日

40代の普及活動


やまがた農業支援センター 阿部 清   


 里に3回目の雪が降ったが、12月中旬までに根雪になっていなかったので、今年は穏やかに冬を越せるのではないかと期待していた。しかし、淡い期待は吹っ飛んだ。一夜にして一面雪野原になり、間を置かずにドカ雪が連続した。例年の300%の降雪量だという。いよいよ朝一番の除雪・排雪が日課となった。「雪片づけもウインタースポーツ」と、前向きに考える人もいるが、排雪作業に追われることを考えると、どうしても後ろ向きになってしまう。集中して作業をおこなうとランナーズハイのような状態になるといわれているが、除排雪の修業が足りないのかもしれない。


column_abe54_1.jpg 行政の職場から再び普及センターに異動したのは、40歳の時だった。以前のコラムに書いたように、旧知の農業者からの「おかえりなさい」の言葉で普及活動がスタートできた、幸せ者の普及員だった。行政の経験をチョット持ち合わせるようになると無双、との妄想に浸っていた「鼻持ちならないヤツ」だったかもしれない。しかし、ひとたび普及の現地に出てみると、行政で経験したことなど、ある意味、まったく役に立たないという現実があった。


 平成に入ると、チームでの普及活動の重要性がクローズアップされることが多くなった。普及活動において、外部評価が始まったのも、この頃だったと記憶している。
 綿密にプランニングし、チームで普及活動を行うことによって普及の人材を育て(人材が育ち)、JAなどの農業団体と役割分担することによって、農業者(普及対象者)の信頼を得ていく。普及であってもJAであっても、対応する農業者は一人で、窓口が分割していなかったことによる。普及事業の核心は「考える農業者」であれば良く、それは、農業者の経済的な実利を得ることと表裏一体だと感じることが多かった。それなくして、普及活動の評価は向上しないと考えることにしていた。チームを組んだ若手普及員には、「いろいろあるが、40代になったら普及活動で外すことは、まずない」と、自画自賛気味に嘯(うそぶ)き、チームに貢献することを求めていたと思う。


 異動後、最初に直面したのは、「露地ニラ」産地の存亡の危機だった。
 初夏のある日、あるJAの営農指導員から、「最近クレームの回数が多い」という話を聞いたのが始まりだった。他のJAに問い合わせても同じような傾向だった。「予冷施設の人為的な操作ミス」とか、「特定の品種にクレームが多い」とか・・・いずれも、長年育てた産地が危うい状態にあるという危機感を、営農指導員らと抱いたのだった。


 生産者の課題の共有化を迅速に進めるため、「産地大会」を実施することになった。多くの生産者が集まった大会の意見交換で、各荷受会社のセリ人と生産者が激しく対立する様子を心配しながらも、「生産者間で産地の課題が共有できる。この普及活動は必ずうまく行く」と、自己評価した覚えがある。具体的な普及活動は、以前のコラムに記しているが、プロジェクトチームを組んだ若い普及員、JAの営農指導員の貢献あってのことだ。

 当時、普及センター管内には11のJAがあって、生産組織はJAごと・品目ごとに組織化されていた。生産組織を広域化することによって、諸課題の共有化という農業者にとってのメリットが、デメリットを上回ると普及センターでは考えていたからでもある。普及センターとJAとの、必要な役割分担を目的としたものでもあった。


column_abe54_2.jpg その後は、広域の生産組織を主体にした産地育成を推進しながら、現在に至っている。「生産組織が広域化すると個々の農業者との関係が希薄になる」という不安はあったが、複数の品目で県を代表する主産地になっていることから考えると、農業者の実利面には貢献ができたのではないかと思っている。

 半面、普及サイドでは、農業者の動きが見えにくくなったという課題があった。私が若い頃に指導を受けた先輩からすれば、「何ということをしてくれた」と、呆れられてしまうかもしれない。「このような普及手法は、昔の総合指導活動に類似したプロジェクトチームによる普及活動で、時代の要請よるものだ」と答えようと準備していたが、先輩からの問いかけは一切なかった。


 プロジェクトチームの活動は、PDCAサイクルによって進行管理する。この進行管理による普及活動に違和感を覚えることがあったのは、自分だけではないようだった。実際、普及計画通りに進行する普及活動はほとんどなく、多くは、活動しながら時点修正(?)することが多かったからだ。「机上で考えても何の役にも立たない。歩きながら(農業者と対面しながら)考えて行けばよい」とは、私が若い頃にJAの事務所で聞いた、ある営農指導員と直属の上司(管理職)との会話だ。ずいぶん無茶な指示をする上司だと思ったが、普及活動を現場でやってみて初めて気づくことは多い。農業者が、多様な存在だからに違いない。少なくとも、農業者目線では正しいと。普及計画は修正するためにあるのだとすると、PDCAサイクルはうまく回せない・・・。


 農業、農村の多くの課題を普及が担えるわけではない。しかし、有益な情報の多くを知りうる立場である。それは常に農業、農村の現場にいて、農業者と対面で接しているからにほかならない。しかし、課題の多くを知る立場にあるからといっても、普及活動が必ずしもうまく進むとは限らない。目に見えるような形で成果が出にくくなっているという普及の課題は、日々の連絡業務に忙殺されている営農指導員と、悩みの根っこの部分は同じだと感じていた。農業情勢の変遷とともに農業者の立ち位置が変化しているように、当然といえば当然なのだろう。


 山形県では、普及センターは平成17年に、地域行政組織の「普及課」になった。課内室として、研究圃場を有する「産地研究室」があるという、特色のある普及組織になった。普及活動の強みが技術にあるのだから、技術的な側面から農業、農村の課題解決の切り口にした普及活動を展開するという、組織改編のねらいだった。


 50代になって、ある管理職から組織運営や普及活動についてアドバイスを求められ、次のように答えたことがある。
 「スキルの高い普及指導員を、不足なく人事配置することは不可能だ。普及指導員を育て、外部人材の活用や関係団体との役割分担などにより、ベストの普及活動を展開するのが管理職の務めだと思う。普及の強みは、農業者と直接接することによる農業、農村現場の情報収集と分析能力だとすれば、提案も説得力を持つだろう。必要があったら、経済波及効果でさえも普及でチャレンジして行くべきだ。このような業務を担える組織は普及以外にはない」と。


●写真上から
・降雪に霞む里山の杉林
・着雪したモミジ

あべ きよし

昭和30年山形県金山町の農山村生まれ、同地域育ちで在住。昭和53年山形県入庁、最上総合支庁長、農林水産部技術戦略監、同生産技術課長等を歴任。普及員や研究員として野菜、山菜、花きの産地育成と研究開発の他、米政策や農業、内水面、林業振興業務等の行政に従事。平成28年3月退職。公益財団法人やまがた農業支援センター副理事長(平成28年4月~令和5年3月)、泉田川土地改良区理事長(平成31年4月~現在)。主な著書に「クサソテツ」、「野ブキ・フキノトウ」(ともに農文協)等。

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