提供:(一社)全国農業改良普及支援協会 ・(株)クボタ


農業のポータルサイト みんなの農業広場

MENU

農業経営者の横顔



「農明」を道しるべに、若手を育成して地域に貢献

2025年01月23日

202408_urata_1.jpg
浦田 康明さん (福岡県糸島市 農業生産法人(有)ウラタ農園)


 福岡県西部の糸島半島に位置する糸島市。北に玄界灘、南に背振山系をのぞみ、中間部は糸島平野と呼ばれるなだらかな田園地帯が広がる。福岡都心部まで電車で30分程度という立地もあり、観光地・移住先としても注目を集めている。浦田康明さんは、2001年(平成13年)に、糸島市で農業生産法人有限会社ウラタ農園を設立。ASIAGAPを取得して、70棟あまりのハウスで水菜をメインにホウレンソウや人参、白菜、とうもろこしなど、年間170tを生産している。


農業が嫌いだった子供時代
 実家は農家。だが、「農業は嫌いで継ぐ気はなかった」という浦田さん。小学校の父兄参観に来る両親のゴム長靴姿や軽トラックに抵抗があった。大学は農学部に進んだが、農業に就く気はまったくなかった。
 友だちの父親が身に着けていた"パリッとしたスーツ"への憧れもあり、卒業後は商社に就職したが、月給をもらうようになって気づいたことがあった。サラリーマンの給与は他人によって決められるもの。その点、自営業は、自力でどうにでもできる可能性や伸びしろがある。「就農に関しては父が舞台を整えてくれていた。檜舞台ではなく、"杉"や"泥"の舞台かもしれないが、そこに上って踊るだけで良かった」。


 物流については商社で学んだが、値段の付け方が分からない。「その時は、野菜を市場に出すという考えはなく、自分で値段を付けて売るものだと思っていました」。
 福岡に戻ると、まずホームセンターの扉をたたいた。顧客の購買行動を学びたいという考えからだ。面接では「何年か働いたら辞めます。でも、もし採用してもらえたら、人並み以上に働きます。一番忙しい部署に配属してもらって構いません」と話した。社長には「辞めるといって入ってきた人は初めて」と言われながら採用が決まった。がむしゃらに働き、退職時には「うち(ホームセンター)で扱っている花苗や野菜苗を作ってもらえないか」と声をかけられた。実現にはならなかったが、浦田さんの働きぶりが認められてのことだろう。


202408_urata_2.jpg  202408_urata_3.jpg


BSEでニラから水菜へ転換
 実家では、ニラをメインに栽培していた。2001(平成13)年に日本国内で牛海綿状脳症(BSE)が発生し、このことが県内のモツ鍋店に大打撃を与え、鍋につきもののニラの需要がガタ落ちとなった。「作っても作っても赤字で、パートさんたちの給与も出せない状況でした」。そんな中、付き合いのあった種苗店からコマツナと水菜の苗をもらった。コマツナはそこそこだったが、水菜が想定を超えた高値で売れた。当時の水菜は、サラダよりも大阪の「はりはり鍋」のイメージが強かった。


 なぜこんなに高値で売れるのかと不思議に思った浦田さんは、理由を知りたいと、原産地と記載のあった京都へ行くことに。どこに行けばよいかも分からず、碁盤の目のような京都の町を歩いていると、「京野菜専門店」の看板が目に入った。店には"京野菜"の水菜があった。「作り始めた水菜がとてもよく売れる。どうしてこんなに売れるのかが知りたくて、福岡から来ました」。
 それまで、サラダのベースはキャベツやレタスだったが、ちょうど、子株で収穫した水菜をカットして、ドレッシングであえたサラダが、イタリアンレストランなどで供されはじめた頃だった。
 店で教えてもらった生産者を尋ねたところ、小さなハウスで老夫婦が水菜を作っていた。
 「働かせてください」とお願いすると、「なにごとか!?」と驚かれた。事情を話したところ、食事をしながら水菜のことを教えてくれた。福岡に戻り、ニラから水菜に切り替えることに決めた。


女性と子どもに好かれる野菜は売れる
 その頃、水菜はほとんど知られていなかったため、地元の大手スーパーで試食販売をした。水菜とタマネギ、ベーコンを切り、ドレッシングであえて出したところ、普段は野菜を食べないという子どもが「おいしい」と言って母親を驚かせた。
 「水菜は、切ってそのまま食べられる。その頃はまだ、"時短"という概念の野菜がなかったのも良かったのでは」と浦田さん。「女性と子どもに好かれる野菜は絶対に伸びる。これでやっていこう」。一年後、カットした水菜にマヨネーズをかけるテレビCMが流れ、これが起爆剤となった。これ以前から水菜を作り続けてきたウラタ農園には追い風となった。現在、直接取り引きのあるお客さんはみな、栽培を始めた頃からの付き合いだ。

 水菜栽培を始めてから1、2年がたった頃、父親からひとこと「お前がせい(やれ)」と言われて経営委譲。3、40棟だったハウスは現在70棟を超えた。「父が仕事からすっぱりと手を引いて、すべて自分に任せてくれた。それがよかった」と浦田さん。


202408_urata_4.jpg  202408_urata_5.jpg


農薬保管庫のために取得したGAP
 現在ウラタ農園は、浦田さんと奥さんと弟、それに技能実習生が5名とパートが23名。2016年にはJGAP Advance(現ASIAGAP)を取得している。
 「GAPは、全国的には広がりを見せているかもしれないが、福岡はまだまだ消極的」。GAPを取得したからと言って付加価値がつくわけでもなく、商品が高く売れるわけでもないからだ。市場出荷メインの生産者にとっては、メリットはあまりないのでは? と話す浦田さんに認証取得のきっかけを聞いたところ、「農薬保管庫が欲しいと思っていた時に、GAP関連の補助事業の情報を見つけたから」と笑う。このタイミングでGAP認証の取得を決めた。


202408_urata_6.jpg 当時は、GAPのことは誰も知らない、誰に聞いたらいいのか分からない、コンサルタントもいない、という状況だった。JGAP Advanceを申請する予定で準備していた資料は、実はJGAPのものだったりと、分からないことだらけで、取得までの道のりは本当に大変だったと振り返る。


 GAPについては、「雇用面におけるルールの明文化や従業員の間の情報共有にメリットを感じている」。人が集まると、それぞれ良かれと思って動いたことが、必ずしも良い結果に結びつかないこともある。ルールでがちがちに縛るわけではないが、作業のフローチャートなどを作り、それを見て、誰もが自身で動けるような仕組みを取り入れている。就農環境がしっかりしていれば安心して働いてもらえるということで、ウラタ農園は地域の雇用創出の場にもなっている。

 収穫から出荷までのコールドチェーンを確立することで、品質の高い水菜生産を可能にしており、仲卸を通じて香港やシンガポールでも販売されている。水菜のほか、トウモロコシとホウレンソウでもASIAGAPを取得。「管理はどれも同じで、フローチャートに沿って生産し、最終的に安全なものかどうかを確認して出荷している」。


202408_urata_7.jpg  202408_urata_8.jpg


 GAP等を取り入れ、働きやすい環境を整えることも大事だが、それ以前に、採算が合わずに倒産するようなことはあってはならないと考える。そのため、調製時間を成績順に貼り出したり、指導を任せたリーダーには、農業機械や農薬などの研修や資格取得を勧めたりするなど、スタッフのモチベーションの向上も図っている。


「農明」をみちしるべに
 事務所の壁には、力強い文字で「農明」と書かれた額が飾られている。
 これまでは「金持ちになりたい」「生産や品質で一番になりたい」という気持ちで農業を行ってきた。会社として今後、どのように事業を進めていくのか、何のために会社を経営するのかと考えたとき、「道しるべ」となるものがなかった。いま、最終的な目標として「若者の育成」に行きついた。


202408_urata_9.jpg  202408_urata_10.jpg


 農業現場は高齢化し、若者はなかなか集まらない。農業に興味を持って就農した若者が、結局、離農してしまうことも多い。「農業で食べていけるよう、若者が就農できる環境を、会社として整えていきたい」。
 若い人たちが就農を考えるとき、職場環境が与える影響は大きい。「農業現場は特殊で、残業時間が考慮されなかったり、残業代の計算方法がほかの業種とは異なるケースもある。そういうことが続けば、農業従事者の所得は上がらない」。
 では、どうすればよいのか?
 「自分で価格を決定すること」と浦田さんは言う。「自分で価格を決められなければ、いつまでも収入は上がらない」。いま、ウラタ農園は、価格に関してある程度の決定権を持っているが、よりよい条件で交渉を進めるためには、ブランド化も必要。「ウラタ農園の水菜」というブランドで販売ができれば競争力も付き、今よりも良い条件で交渉することも可能になる。

 ウラタ農園では、現在、農業大学校のインターン生の受け入れも行っており、取材の日も、若い研修生が挨拶に来るとのことだった。最終目標は「農業を通じて若者を育成し、地域に貢献すること」と語る浦田さんをこれからも応援していきたい。(みんなの農業広場事務局 令和6年8月2日取材)


▼有限会社ウラタ農園 ホームページ