提供:(一社)全国農業改良普及支援協会 ・(株)クボタ


イチゴの規格簡素化、パック技術の向上で大規模化と労働時間短縮の両立を実現

2019年07月11日

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池松洋一さん(熊本県八代市 池松農園)


"八代は球磨川の賜物"
 熊本県南部に広がる八代平野は江戸時代から昭和40年代にかけて断続的に干拓事業が行われ、実にその3分の2を干拓地が占める。また、日本三大急流に数えられる球磨川が定期的に氾濫を繰り返し、肥沃な土壌に恵まれたことから全国でも有数の農業地帯に発展した。生産高日本一を誇るトマト、い草のほか、米作や施設園芸など多彩な農業が営まれている。

 池松洋一さんの義父にあたる池松彦次郎さんが、当地で他に先がけてイチゴ栽培に乗り出したのは1953年のこと。以降、彦次郎さんはイチゴによる大規模経営の道をひたすらに邁進。栃木県のイチゴ産地が「女峰」から「とちおとめ」に舵を切り、大規模化を進めた2000年代前半までは、日本一の栽培面積を誇っていた。彦次郎さんの薫陶を受けた池松さんは大規模経営をさらに推し進め、先進的な取り組みで八代、そして熊本の農業界を常にリードしてきた人物だ。


親父にほれて婿に入る
201906_yokogao_ikematsu1_.jpg 熊本県球磨郡錦町に生まれた池松さんは高校卒業後、福岡県の八女で電照ギクの研修を1年受け、実家に戻って就農。3年後、地元4Hクラブの先輩に連れられ、初めて彦次郎さんの元を訪れた。これが運命の出会いとなる。

 「その頃、親父(彦次郎さん)はすでにイチゴをつくっていたので、いろいろ話を聞き、アドバイスも受けました。親父は優れた農業経営者であるだけでなく、人間的にもあまりにすばらしくて、私はすっかりほれ込んでしまった。それで何度も足を運ぶようになったんです」。
右 :池松洋平さんと清美さんご夫妻


 ほれ込んだのは池松さんだけではない。彦次郎さんもまた、池松さんにほれ込んでいた。彦次郎さんには2人の娘があり、長女の清美さんに婿を取って、跡を継がせたいと考えていたのだ。
 「会ってみると家内(清美さん)もまたすばらしい女性でした。やっぱり何かの縁があったんでしょうね」。
 片や清美さんも「私は小さい時から『あなたは跡取りだから』と言われて育ちましたから、その路線にうまく乗せられました」と笑いながら振り返る。


イチゴ一本に絞る
 池松さんが結婚した1976年当時は電照ギク(2反)とイチゴ(7反)の2本柱だった。池松さんも3年間はその両輪を支えたが、どうしても12月からの収穫時期が重なってしまう。労力的に限界を感じた池松さんは、彦次郎さんの意向も受けてイチゴ一本に絞ることを決意する(これでイチゴは計9反に)。だが、栽培品種の「はるのか」は粒が小さく、パッキングに手間も時間もかかった。

 「一番小さいのは小指の先ぐらい。実際、そんな小さいイチゴも詰めていました」。
 加えてネグサレセンチュウによる連作障害が発生し、不作が続いた。試練の中にあって池松さんは、土壌消毒、電照設備と暖房設備の導入という3点セットを5~6年かけて断行。経営が徐々に安定してきた矢先に新品種の「とよのか」が登場し、池松さんは熊本県内で初めて栽培に着手する。かつて"東の「女峰」、西の「とよのか」"と謳われたスター品種だ。
 「『とよのか』は大粒で、とにかくすばらしい品種でした。2年目からは一気に2反栽培して、『はるのか』の2~3倍は採れたんじゃないでしょうか」。


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池松さんの広大な圃場(左)と育苗中のハウス内部


積極的に技術を学び、教える
 熊本県における「とよのか」の普及・定着には、彦次郎さんが大きな役割を果たしているという。
 「親父はかねがね、農業試験場の先生たちと緊密にお付き合いしながら技術を磨いてきました。『とよのか』の時には西本太さんに大変お世話になり、西本さんご自身もうちに泊まりがけで勉強に来られたり、情報交換や連携がとても良好でした。結果的に『とよのか』が出てきたことで、八代、熊本のイチゴ産地は息を吹き返したように思います」。


201906_yokogao_ikematsu17_.jpg 彦次郎さんは、久留米支場(現在の九州沖縄農業研究センター野菜花き研究部)の支場長で、のちに農林水産省野菜・茶業試験場(現在の野菜・茶業研究所)場長を務めた本多藤雄さんとも交流。"本多会"なる勉強会を定期的に開いて仲間たちと研鑽を積んだ。さらに、全国のイチゴ生産者とのネットワークを構築し、研修生も積極的に受け入れ、惜しみなく技術を教えた。

 「イチゴ栽培を始めるにあたって、親父は教えを請おうと静岡を訪ねたそうですが、ことごとく門前払いだったと聞きました。その時の体験が"来る者は拒まず"の姿勢を生んだのだと思います。しかも親父は情報を積極的に発信すれば、逆に情報が集まってくることを知っていました。相談を引き受けたり、失敗を含む各々の経験を集めることで、幅広い知見を積み上げていったわけです」。
 彦次郎さんのこの姿勢を池松さんも継承。イチゴ研究で知られる大阪府立大学の織田弥三郎さんに指導を仰ぎ、同氏が会長を務めた日本イチゴセミナーでは、池松さんは農業者としてただ一人理事に選任された。


高速パッキングの秘密
 大粒な『とよのか』の導入を機にさらに圃場を増やし、現在の総栽培面積は1町3反3畝。
 「うちは、畝づくりを管理機ではなくトラクターで一気にやってしまいます。だから畝の数が16本ぐらい減るので、実質1町1反ぐらいです」。
 品種は「とよのか」ののち「さがほのか」「ひのしずく」と変遷し、現在は「ゆうべに」を主力に「かおりの」も栽培する。従事しているのは池松さんと清美さん夫婦、息子の洋平さんと弥希(みき)さん夫婦に、ベトナムからの研修生4人の計8人だ。


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左 :パッキングの様子。ベトナムの研修生は午前中の収穫が終わってからパッキングに加わる。池松さんの調整作業場は、圃場と同じく効率を中心に考えられているのが特徴だ
右 :大、M、Sの3規格で詰める簡素化パッキングの作業


 清美さんは「イチゴの栽培面積はつまるところ、その農家の"詰める器量"で決まってくる」という。もともと池松家は雇用型で、清美さんが子どもの頃には"おとこしさん""おなごしさん"と呼ばれる働き手が各3人ほど住み込んでいた。労働力には恵まれていたわけだが、大規模化を可能にしたもうひとつの要因がパッキングの技術だった。
 池松さんは早くから簡素化パックを採用している。一般的なレギュラーパックがSP、DX、3L~2S、特Aなど10以上の規格があるのに対し、簡素化は大、M、Sの3規格。詰めるスピードが格段にアップする上に、イチゴに触れる時間がほぼワンタッチで短くなるため、傷みにくく日もちにも優れる。

 「100万円以上するラッピング用の機械を一回据えたんですけど、機械のほうがわれわれのスピードに追いつかない。ベルトコンベアに乗り切らなくて、結局、人力に戻しました」。
 聞いた印象では簡素化のほうが簡単そうだが、スピーディにこなすためには、それなりの熟練を要する。実際、ベトナムの研修生は1年目にはかなり苦戦し、ようやく一人前のレベルに達するのはおおむね3年目以降とか。


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左 :パッキングされた「ゆうべに」 / 右 :出荷には通いコンテナを使用


 池松さんが所属し、簡素化を採用している昭和いちご部会では過去に一度、小規模経営の部会員から「レギュラーのほうが値段が高いのではないか」という疑問が出たことがあった。
 「その部会員を説得するために、レギュラーの産地の月ごとのキロ単価を10年分調べ上げて比較してみたんです。結果は、簡素化のほうが高かったのが7年でした。レギュラーでは最高ランクは高いのですが、Sから下が極端に安くなってしまう。対照的に簡素化は値段のばらつきが少ない。農家は労力面をあまり数字で見ないのですが、パッキングに要する時間をきっちり割り出せば、簡素化の優位性は一目瞭然でした」。


"イチゴを捨てる"勇気
 取材に訪れた5月末は育苗の真っ最中。この苗を9月に定植し、収穫は11月下旬から3月末まで。とはいえ池松さんは「近年は3月20日を過ぎると、4反、5反はイチゴを捨てている状態です」という。先述のように池松さんの栽培面積は1町3反3畝で、そのうちのおよそ3分の1を捨てるとはどういうことなのか。


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左 :ベトナムからの研修生が育苗作業中 / 右 :育苗の様子


 「ある程度の所得がないと生活できないのは当然ですから、これぐらい稼げば大丈夫というラインをあらかじめ決めています。だから3月のある時点で収入の目途が立ったら、あとはどんどん捨てます。捨てるといってもボランティアで保育園や小学校にイチゴ狩りを楽しんでもらったり、研修生や収量の足りない部会の生産者にも開放したり。その間、私たちは学校や家や自分の行事優先です。毎年5月には妻とフルムーンパスで12日間旅行に出かけるのが恒例で、観光を織り交ぜながら全国の生産者仲間や、かつての研修生の地元を訪ねたりしています」。


 実は池松さんは、収穫期でも目標のパック数を詰め終わるのが通常16~17時。それ以降の残業はしないと決めている。それはなぜか。
 「かれこれ12~13年、夜なべはしていません。でも、おとこし、おなごしさんがいなくなり、家族労力がメインの頃は朝の6時に起きて、夜中の1時、2時まで働くのが普通でした。『はるのか』の時代は不作でお金が取れず、おまけに忙しくて子どもに手をかけられなかった。どこにも遊びに連れていけないし、外食も一年に一回すらできない。両親は相当苦労したのに、2人とも病気で早く亡くなりました。収穫シーズンの半年間は、体の調子が悪くてもなかなか病院に行けなかったんです。そういった反省、後悔が一番大きい。
 部会はもとより全国のイチゴ農家を回っていると、みなさん夜なべも長時間労働も当たり前になっていて全然余裕がない。金を取ることは大事だけれど、さすがにこれでは人間らしい暮らしとはいえません。やっぱり30年、50年つくれるような、女性が嫁ぎたいと思えるようなイチゴ農家でなければならず、それがひいては後継者の育成につながるのではないかと思い至りました。人間らしい暮らしを取り戻すためにも、またイチゴに殺されないためにも"イチゴを捨てる"勇気は必要なんです」。


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収穫を待つイチゴたち(左)と収穫の様子(右)


 ただし、指導農業士でもある池松さんは、研修生たちには次のように指導しているという。
 「イチゴ農家の跡取りである研修生には、経営に余裕があるのかないのか、しっかり親と話し合って聞きなさいと言っています。もし余裕がないのなら、夜なべをするつもりでがんばりなさいと。若いうちはそれができますから。それで稼げるようになったら、徐々に労力の見直しをしていけばいい。最初からうちのような、ある意味できあがった楽する農業をめざしてもだめなので、そこだけははき違えないように指導しています」。


イチゴ生産者の未来のために
201906_yokogao_ikematsu4_.jpg 池松さんは24年間務めてきた昭和いちご部会の部会長を本年度で退き、八代地域農業経営者協議会の会長に就任。2018年11月には、息子の洋平さんへの事業継承も済ませている。そんな池松さんが清美さんとともに構想しているのが捨てているイチゴの利活用、すなわち観光イチゴ園の開園だ。
右 :息子の池松洋平さん


 清美さん「若い時は馬力もあったけど、年を取ると目が衰えてきてイチゴを詰めるのも大変。でも観光イチゴ園は肉体的にも無理がなさそうだし、何より楽しそう。イチゴ農家には体の不調を抱えている人が多いというお話がありましたが、親しくしている福岡の奥さんも腰を痛めて2年間お休みしました。ところが息子さんの協力も得て観光イチゴ園を始めたら、もう人が変わったみたいに若々しく、生き生きとされている。やっぱりやりがいのある仕事なんだなって」。
 池松さん「できればバリアフリーの施設にしたいですし、摘みやすいように高設栽培にもしたい。それに観光イチゴ園であれば品種を多くしないといけません。運よく八代港には海外の大型クルーズ船が寄港するようになり、ターミナル施設の整備も決まりました。インバウンドをうまく呼び込むための工夫なども含め、家内や息子夫婦とも相談しながら前向きに進めていきたいですね」。


 その一方で、八代全体のイチゴ生産者の現状を「経営状況はよくなってきたが、今なお労働環境は厳しい」と語る。
 「うちは労力があるからいいですが、家族中心で1人か2人しか雇えない農家は絶対に夜なべをしないと摘み切れません。労働環境の改善に向けて、共同のパックセンターなどをつくるのか、あるいはほかの道を考えて労力確保に努めるのか。難しい課題ではありますが、行政や関係機関などの協力もいただきながら取り組んでいきたい。そして、誰もが健康的に長くつくれるようなイチゴ経営の道を私なりに模索して、普及に結び付けていけたらと思っています」。(佐々木優 令和元年5月27日取材)