ぐるり農政【163】
2020年10月23日
スマート農業と零細高齢農家
ジャーナリスト 村田 泰夫
新しい技術に高齢者は、なかなかついていけないものである。私は70歳代半ばになるが、職場でICT(情報通信技術)導入の波をかぶり続けてきたように思う。50年前に入社したとき、原稿を書く道具は鉛筆だった。それが25年前、ワープロが支給され、それで原稿を書くようになった。シャープの「書院」というワープロで、初期のものは液晶が2行分だけだった。それが大画面になり、数年後にはパソコンに変わった。
ワープロで原稿を書けと命じられた時、私たちが困ったのは入力である。外国人と違い、タイプライターを使う習慣がなかったから、字を打ち込むのに苦労した。ひらがな入力というワープロも人気だった。ひとさし指1本で打つ人もいた。キーボードを見ずに字を打ち込むブラインドタッチという手法を学び始めたが、いまもって早く打てない。記者会見でしゃべっていることを、まるで速記者のように一言も漏らさず打ち込む若い記者を見るとうらやましい。
先日、農協の機関紙で、スマート農業に懐疑的と思われる記事を見て、うなった。記事の趣旨はこうだ。
スマート農業が花盛りだ。高齢化や人手不足が深刻な中、魅力的に見える。めざすのは農家がいち早くスマートになって、競争力を高めること。安倍前政権から続く攻めの農政にぴったり合う。成長するには競争するしかない。他人を蹴落としてでも強い農業をめざしなさいというわけだ。新しい技術は私たちの暮らしや経営を便利にする一方、社会のひずみを広げる。現在、インターネットやスマートフォンがない生活は想像しにくい。半面で社会の経済格差は大きく広がった。農業でスマートな技術がもてはやされ、農村に取り返しのつかない経済格差が生まれることはないだろうか。
この記事の筆者はスマート農業を否定しているわけではなさそうだ。「一つ一つの技術を見れば便利で営農に役に立つものばかり」とも書いている。でも「一握りのスマートな経営者が、戦前の地主のように『旦那さま』として農村を歩き回る姿は見たくない」と揶揄している。
農業者が、この記事を読んで、どう思うのだろうか。私は違和感が残った。「ちょっと違うのではないか」。無人トラクターやドローンを使った防除システムなどのスマート農業は、とくに農業で生計を立てようとしている農業者には関心の高い話題である。でも、現段階のスマート農業の技術は、まだ実証試験段階のものが多く、今すぐにスマート農業の機器を購入して採算の取れる代物ではないことは確かである。本格的導入は、今後さらなる改良が加えられ、導入コストに見合う作業効率が確かめられてからであろう。
しかしながら、人手不足に悩み、コスト削減で収益の向上に腐心する農業者は、スマート農業のめざす方向性に共感を抱いているはずだ。「他人を蹴落としてでも強い農業をめざそう」と思っているわけではない。人手不足やコスト高という課題に向き合い、課題を解決するには、新しい技術の導入が不可欠だと考えているのだ。他の農業者を蹴落とすためではなく、他の農業者と切磋琢磨しようとしているに違いない。
スマート農業の導入に関心を抱いている農業者は、おそらく専業農家だ。彼らは、収益を上げるため規模拡大をめざしている。しかし、小規模で副業的に農業を営んでいる農業者や、直売所に出荷するだけの零細で高齢な農業者にとって、スマート農業の機器は遠い存在であり関心もない。零細・小規模な農業者に、無人トラクターは必要ないからである。
そもそも、高齢農業者にとって、スマート農業が採用するICT技術には、ついていけない壁がある。鉛筆で原稿を書いていた老記者がパソコンを駆使する時代についていけないのと同じ壁である。インターネットやスマホなど情報通信機器を使いこなせない高齢者には、住みにくい社会になっている。
これを「デジタル・デバイド」という。情報格差と訳す。若者世代では、スマホを駆使して友人と連絡を取り合ったり、衣服や雑貨、それに日用品を通信販売で注文したりして、ICT時代を謳歌している。一方のスマホを使いこなせない高齢者は、いまも固定電話やFAXである。孫に教えてもらったスマホで通販サイトにアクセスしたのはいいけれど、何回も「注文」をクリックし、過剰発注してしまったという話も、先日の新聞記事に載っていた。
インターネットやスマホを使いこなす若い世代と、先端的な情報機器にうとい高齢者との世代間で、デジタル・デバイドが生まれていることは間違いない。
農業・農村の現場で、いま何が起きているのだろうか。ICT技術を活用したスマート農業を導入し、効率のいい農業生産をめざす農業経営者の一団と、従来通りの小型農機具で農産物を細々と生産する零細・高齢兼業農家の一団とに、分かれてきているように見える。めざす方向が違うのであって、起きているのは情報格差で経済格差ではない。
スマート農業を導入する農業者は「旦那様」としてふんぞり返っているわけではなく、日本の農業生産を担うべく、忙しく立ち働いている。(2020年10月22日)

むらた やすお
朝日新聞記者として経済政策や農業問題を担当後、論説委員、編集委員。定年退職後、農林漁業金融公庫理事、明治大学客員教授(農学部食料環境政策学科)を歴任。現在は「農」と「食」と「環境」問題に取り組むジャーナリスト。