ときとき普及【85】
2025年07月28日
地域の水田転作(その6)
コラムが公開される頃には、梅雨は明けているだろう。全国的には降水量が多いと報道されているが、当地は空梅雨になっている。いつの間にか積乱雲が山の頂に発生し、すっかり夏めいた光景になった。しかし、今年はセミが少ない。7年前も少なかったのだろうか。
寒冷地でも熱帯夜となり、最高気温も高い。2年前に、高温登熟(平均気温の上昇)により、米の品質が著しく低下したことが思い出される。野菜栽培の専門家らしく、アールスメロンで生育を推し量ると、前年より生育が3日進んでいた。水稲も、6月末には株の開張が始まっていたので、出穂が早まり、高温登熟によって品質が低下しやすいのではと、心配している。今年産の米は、50万t程度増産と公表されているが、品質が低下すると、増産の効果は半減してしまうのではないかと危惧している。2年前にも、品質低下と流通在庫の減少が関連付けられた論調がある。
農業法人の代表者と水田の受託について立ち話をした。
「これまでは地域のことを考えて、条件不利地の水田も含めて、余すことなく受託してきた。その結果、どうしても収量が低下(土地生産性と労働生産性の両方のことか)するという、悩ましい課題がある。だから、未整備田が課題なのだ」と。そういえば、同じ中山間地域の農業法人では、「毎日の水管理だけで半日以上を費やし、水利の面からも作業の目的を達することがない」と話していた。受託契約を解消した面積は20haにもなるという。
かつて、担い手の人々は地域の農地を守る(耕作)ことに疑いを持たなかった。JAも同様に、条件不利地を好条件地と併せて斡旋することが多かった。「地域の農地を守るという意識は、農業協同組合の基本理念に沿ったものだ」と言ったJAの、ある担当部長のことを思い出す。
生産コストといえば労働生産性。水稲の農業法人は10a当たりの労働時間が10時間以下で、生産費は7万円との説明を聞いたことがある。「極めて優秀な農業法人だから」だが、いつのまにか物財費は高騰し、土地生産性は改善の余地がなくなってしまった。条件不利地を抱えた農業法人は、労働コストが掛かり増しするがゆえに、土地生産性の低下に悩むことになる。適期作業や適切な水管理ができず、好条件地でも機会損失に陥ることになった。雑草がはびこる水田を目にする地域の年寄りは、「我々の時代では駄農で、あってはならないことだった」と、ため息をつく。
好転の余地があった米価は、雲行きが怪しくなってきた。需給調整真っただ中の時代に、「いつか、米が農業の中心になる日が来てほしい」という悲願を抱く農業者がいたが、「転作率が40%を超える現状からすれば、そんな日が訪れることはない」と、冷たく却下する自分がいた。
主食は安価で安定していることが大切。そのため、消費者目線の論調が多い。生産者(農業者)の多くは直接販売者ではないのに、消費者米価が高騰すると、その原因は生産者ということになってしまう。
全職種の平均賃金は、令和5年で318万円程度(厚生労働省賃金構造基本統計調査)なので、戸別の農業従事者2名で636万円になる。消費者が、どのぐらいの経営規模で、同等の所得を許容してくれのるかはわからないが、2年前の米価は概算金が12,000円程度だったから、近年の生産資材の高騰を考えると、50ha以上の経営規模が必要になる。現実には、所得で生活を維持できず、原価償却費で家計を補填せざるを得ないという現実があることを、消費者は知る由もない。新規就農者が水稲部門に少ないという理由も、労働報酬が少な過ぎることにある。報道されている時給数十円は極端だとしても、数百円には当てはまるようにも思われる。
生産者価格が2万円台になると、稲作農家の経営は劇的に好転する。経営規模50haの10分の1の5haで、同等の所得が可能になるからだ。
この価格では、国際競争力云々を題材に出してくることが多いだろう。需給調整で、輸出米を過剰生産の場合のバッファに活用するという議論を視聴したが、ほとんどの稲作農家にとって、魅力はないだろうと思えた。輸出に取り組んでいる農業者の本音は、どこにあるだろうか? 国内価格が低迷し、かつ、需給調整の恩恵を最大限受けるための対応ではないかと、勘繰ってしまう。販売価格の面からすれば、国内の主食用のレベルには到達していないからだ。最近、国内の米流通が複雑だと論評されることがあるが、そんな時は「輸出だって同じだ」と、指摘することにしている。国の統計では、米の輸出が順調に拡大しているというが、需給調整(米政策)効果はどのぐらいだろうか?
他国に比較して、収量レベルが相対的に低下しているとの発言もあった。
良質米生産のために、多収を考えてはいけない時代だった。多収を目指すと倒伏・低収の懸念があるコシヒカリほどではないにしても、他のブランド米の多くは、9俵にとどめた栽培を実践していることが多い。登熟期後半に葉色が低下する良食味米生産現場を眺めながら、「栄養失調の稲作で本当に良いのか?」と、ため息をつく農業者もいる。
多収を推奨しているのは飼料用米のみで、加工用米も主食用と同グレードで生産しているから、備蓄米の食の絶対値が高いのは当然なのだ。多収を追い求めた時代の古米は不味かった。ましてや古々米などはいわずもがなだ。
条件不利地の受委託契約の解消が自然の流れなのだとすると、明確な借り手のない水田はどうなるのか。
食料安保が国策なら、水田の基盤整備に対する相応の予算措置が必要になる。応分の負担が必要な、都道府県や市町村の予算措置は大丈夫かと、心配になる。受益者負担がほぼない最近の基盤整備だが、公共事業で実施することの意味合いを、しっかり考えておく必要がある。農地は個人財産になるが、農地を維持し、高能率な水田として役割を果たすという公的な意義がある。
食料安保が加わると、さらに重みを増すことになるが、工事施工業者の人材不足は凄まじく、優先的に取り組まれる災害復旧でさえも、困難な状態になっているという。労働人口の減少は、農業従事者、稲作農家の激減だけではなく、この分野にも影を落としている。時折、工事現場で誘導員をしている高齢の知り合いを見かけることがある。田舎に居住するものにとっては、統計の数値が公表されるたびに、ため息が出るが、わが町の出生者が自分の世代に比べて十分の一になっていても、「水田は何とか維持されている」と、強がりを言うことは忘れない。
結局、基盤整備は予算面だけでなく、人材の面でも100年単位の仕事になる。輸出による需給調整は近未来の施策ではないとすると、農村の維持を優先すべきだと思えてしまう。いくら声高に食料安全保障を叫んでも、農業者が激減した現実の前には、解決策が限られる。少なくとも一世代30年間は、可能な限り小稲作農家の経営が維持されるべきではないだろうか。
米価が高いことは、農村が豊かになる近道だと思う。
昭和の政府米の時代、農村は物質的には貧しかった。しかし、平均的な耕作面積の水稲の自作農家は、励めば家族を養い、「蔵が立つ」と言われるような財産形成が可能と言われることが多かった。時代は需給調整が必要不可欠になって、物質的には物足りなくなっていくが、以前は、農村は豊かだったのではないかと思っている。当然のことながら、農村の人口は多く、労働力の供給基地として経済成長を支えていた。普及員になった昭和の後半には、農村は経済的に苦境に立たされているとされ、都市部より早く始まった人口減少は、経済的基盤が危ういことを要因にしていると、普及計画に記述していた。
人口減少対策の議論は簡単ではない。残念なことに、実効性のある解決策はほとんどない。だから、転作が開始された昭和40年代に時間を戻して考えてみたい。この頃の農村は、精神的にすこぶる豊かだった。もちろん、政府米として下支えされた米は大切な収入源になっていて、物質的にも豊かだったと思う。当時と異なる背景や要素を加味して考えれば、豊かな農業、農村は可能になる。
人口減少対策の実効性のある対策がないのならば、キーワードは「相対的に高い米価水準」になると信じている。
写真上から
・早朝の地区作業(1)
・早朝の地区作業(2)
・共同作業で実施する堰の補修
地区作業は、高齢化により実施が難しくなる時が、近まで迫っている
あべ きよし
昭和30年山形県金山町の農山村生まれ、同地域育ちで在住。昭和53年山形県入庁、最上総合支庁長、農林水産部技術戦略監、同生産技術課長等を歴任。普及員や研究員として野菜、山菜、花きの産地育成と研究開発の他、米政策や農業、内水面、林業振興業務等の行政に従事。平成28年3月退職。公益財団法人やまがた農業支援センター副理事長(平成28年4月~令和5年3月)、泉田川土地改良区理事長(平成31年4月~現在)。主な著書に「クサソテツ」、「野ブキ・フキノトウ」(ともに農文協)等。


