ときとき普及【84】
2025年06月26日
地域の水田転作(その5)
備蓄米の精米価格が5kgで2,000円と報道されている。「21、22年産米(10、20万t)だから、古々々米、古々米。品質は大丈夫かしら」と、妻はこのところのニュース報道で、すっかり備蓄米に詳しくなった。古々米はまずいのが定説だが、報道されている備蓄米は、普通に流通している24年産米とはグレードが異なるものだと説明されている。だが、価格ばかりが強調され過ぎたため、消費者は同じグレードのものと考えるだろう。「まずまずおいしい」という評価に対し、「貯蔵技術や施設の進歩もあるだろうが、平成5年の大冷害(平成の米騒動)以降の炊飯技術の進歩と炊飯器の機能向上が、大きな理由では?」が、夫婦一致した結論だ。個人的には、「農業者の良食味米の生産努力こそが、備蓄米の食味の絶対的な低下を防いでいる」と信じているが、同様の説明をする識者はいないし、農林水産省の説明もないのが残念だ。
子どもの頃、米に食味という概念はなかった。茶碗にひとつの米粒も残さないよう躾けられていたように、おいしい/おいしくないという個人の味覚以前に、米は絶対的な存在となっていた。しかし、春になると、飯米は間違いなくまずくなった。コクゾウムシが付いていたことや、保存状態が悪すぎたことなどが原因かもしれない。この頃、政府米の基準以外での価格差はなく、品種による食味の違いを、ことさら指摘する人もいなかった。良食味米品種全盛の時代になって真っ先に感じたことは、昔の品種はまずかったという事実だ。品種開発が食味の基準まで、変えてしまったのだ。
生産者価格と販売価格はともに上昇したが、その水準が同列に議論されていることに反論する農業者は多い。「生産者価格からすれば、販売価格に余分な(?)マージンを付加しているようで、誰かが利益を押し上げているとすれば、これは異常な米相場なのかも」という声に集約できる。一方で、「需給調整なのに需給のバランスが崩れている不思議」、「JAグループは複数年契約や播種前契約などで、産米の需給安定を農林水産省の施策に従って推進してきたはずだから、いまさらの契約変更は難しいはず」とか、「これまでの生産者価格では長年にわたってコストが割れていて、農業者は、それすら仕方のないこととするのが日常だった」などと話をする。「長年の安値安定の米は、消費者が享受してきたはずだ」と、多くの農業者の本心がそこにある。
価格差が表面化してきたのは自主流通米制度が発足してからだと、後に知ることになる。コシヒカリとササニシキが良食味米の代名詞になり、その中でもコシヒカリは、一歩抜きんでた存在だった。しかし、低収によって良食味を維持しているという農業者の努力は、案外知られていない。米主産県は競って良食味米の開発を行い、平成になると、良食味米生産の全盛期になった。全国のブランド米は次第にグループ化し、本県の主力品種は第3グループに甘んじていることを嘆いていたのが、米政策の担当の頃だった。
米政策(水田転作)は、良食味米生産と歩調を合わせるように進み、米づくり運動の普及計画でも、高収量や安定生産から高品質米や良食味米生産に変化している。稲作専門の先輩普及員は、自主流通米を作付していない(できない)任地の農業改良普及所において、「管内で自主流通米を生産することが悲願だ」と、普及計画策定の所内会議で力説していたことを思い出す。同時に、ある程度の食味に仕上げるのが市中の米屋の技量の範疇で、消費者が普通に食べていた「特用上米」が技量の物差しになっているのだと。おそらく、中米(ふるい下米などの低価格米)を原料にしていたはずだが、国全体で米に対する絶対的な価値が高い時代、食味は二の次で、収量を追求することが重要視された米生産にあっても、消費者に食味の概念はあったというエピソードになる。
当時の山形県の篤農家も、多収が大前提だった。彼らの多収技術は農業者にもてはやされた。山形県で「60万t米づくり運動」により、目標を達成したのは昭和40年代の最後のころだった。地域の水田転作が進み、いつしか40万tに低下し、最近は30万t中盤(主食用米は31万t程度)になっている。昭和40年代には晩期追肥により多収となり、玄米中のタンパク含量も上昇するという、視点を変えれば優れた栽培技術だった。大学生の頃、世の中はすでに良食味米と、農業現場はシフトしていて、「それならば、高タンパク米の特徴を活かして、食糧援助での活用はどうか?」という発言を聞いたことがある。
普及員になった昭和50年代は普及計画には水田転作ネタが多く、米主産地では良食味生産が合言葉だった。この頃、茨城県の農業技術研修館で普及員研修を受けたことがある。「主食は適度においしい(適度にまずい?)からこそ、副食の消費が拡大される。畜産や畑作が盛んな北海道はこんな状態が良い。もちろん、生産調整は日本一だ」と、北海道の普及員が話していた。平成になり、「きらら397」がデビューすると、北海道産米の食味評価が一変し、その後に市場評価が高い「ゆめぴりか」の評判を聞きながら、県の米政策の業務をこなしていた。一昨年、北海道の「ななつぼし」を栽培している大区画水田を見学する機会があった。揃いと出来の良さに、改めて寒冷地稲作の推移を感じ取った。
農業集落は、2015農業センサスを分析した農林水産研究所の報告によれば、10戸以下になると集落行事が急激に低下する傾向にあるという。農林業センサスによれば、中山間地域ほど9戸以下の農業集落が増加していることから、農業にとどまらず、集落の将来展望が描きにくくなっているのは間違いない。地域の共同活動に対するアンケートを行うと、ほぼ半数がマンパワーが不足と回答しているという。
生活と農業が一体的に営まれているのが、農村集落では普通のことだったが、いつしか離村だけでなく、集落に住んでいても農業から離れた世帯が多くなっている。稲作の販売農家の減少が著しく、これをもって、将来農地を維持していくのは大規模経営であるのは間違いなく、現在は過渡期なのだという。地域と農業生産の問題は必ずしも一致しないことが多くなったが、農業を農業者として考えると、集落と無関係ではなく、多様な規模の農業経営が共存するのが望ましいと思う。中小の稲作農家は、大規模農家と共存共栄の関係を築いていけるからだ。
前回のコラムで、「そこそこの米価」が解決策になるかもしれないと書いた。5haの稲作農家が生活を維持していける程度の所得水準になるし、なにより、1、2haの高齢の稲作農家にとっても、必要な可処分所得120万円程度を基礎年金に上乗せして生活することが可能になるからだ。大規模経営者は、十分な賃金を従業員に支払うことができるだろう。
儲かる農業経営には就農者が多いことから、農村地域の人口減少に少しでもブレーキがかかるのではないかと思っている。農村地域の経済を支えるのは、所得の地域格差が低い、農業という産業が支えるのがふさわしい。もちろん、地域経済のすべてはあり得ないが、2、3割でその役割を十分に発揮することができると思っている。
さて、遅くとも平成9年度から、新たな需給調整になると説明されているが、農業者がゆるやかな需給調整の継続を期待していことは間違いない。有望な需給のバッファー機能として、輸出を議論する機会が多くなるだろうが、現場で話されることは、まずないだろう。決して遠い未来のことではないが、現場にいると、輸出は雲をつかむようなイメージだからだ。しかし、そのうち農産物輸出国のような、「マーケティングボード」が役割を担うように整備されれば、現場でも、輸出が身近な存在になるのかもしれないと思っている。
●写真上から
・水田畦畔そばで咲くガクアジサイ
・注意して観察すると多いアナベル
・地域に何故か多いアヤメ、強健な種類
・水田畦畔そばで咲くガクアジサイ

あべ きよし
昭和30年山形県金山町の農山村生まれ、同地域育ちで在住。昭和53年山形県入庁、最上総合支庁長、農林水産部技術戦略監、同生産技術課長等を歴任。普及員や研究員として野菜、山菜、花きの産地育成と研究開発の他、米政策や農業、内水面、林業振興業務等の行政に従事。平成28年3月退職。公益財団法人やまがた農業支援センター副理事長(平成28年4月~令和5年3月)、泉田川土地改良区理事長(平成31年4月~現在)。主な著書に「クサソテツ」、「野ブキ・フキノトウ」(ともに農文協)等。