ときとき普及【74】
2024年08月26日
農村の仕事(その3)
「百年に一度」の豪雨に、いまさらながら驚く。7月の豪雨の時は、所用で隣町にいた。平成30年8月の豪雨を思い出しながら、これこそ想定外の災害だと考えていた。目の前を流れる川は濁流。この橋を渡ったら戻れないかもしれない。農道そばの排水路はすでに越流し始め、近くの小学校のグラウンドへの浸水も始まっている。こうなったら、引き返す以外の選択肢はない。
これまで多くの災害現場を普及活動したが、そういえば、現在進行形で災害に直面する機会は少なかった。災害の普及活動の多くは事後対策。その最中に、目どおりで被害状況を調査(確認)する業務があった。この手法は、当時の普及では「達観」という言葉を当てていたが、現在は(未確認ながら)使うことはないだろう。普及業務としての内容が変化しているからでもあるが、当時は、あくまでも情報収集という名分だった。行政サイドは、迅速で正確な行政情報として重宝していた。
普及活動の本番は事後対策。この時農業者と対面すると、平常時とは違った雰囲気を感じることが多かった。災害対応の中では、自然かつシンプルに課題を共有することができたからだと思う。農業者からは、普及員は災害現場に存在することが重要なのだと思われていた。平均的な普及員の技術力は相対的に高いが、普及員の実力に関係なく、いわば猫も杓子もの状態(=ウエルカム)だった。農業者は普及活動の対象者であるが、ある時は友人、またある時は先輩であったりする。時に迷惑がられたりもするが、災害現場では業務がシンプルで分かりやすかった。これが妙にうれしく、話し声が大きくなっていく自分がいた。おそらく、能力以上の力を発揮していると勘違いしていたのだろう。ハイになった普及活動と思われていたのなら恥ずかしい。災害対応という短期的な現地では、普及員の実力差は表面化することはないが、長いスパンでは実力差が生じてくることを認めざるを得ない。先輩普及員が話していた「普及員には、力こぶを入れる普及活動がたまにある。その時に実力差が出てくる」の力こぶとは中身のことだと思う。
日常の普及活動は、こうはいかない。まったくの実力勝負だ。実力不足を嘆きながらも、農協がセッティングした座談会や研修会を中心に普及活動を行っている普及員がうらやましかった。「重要な内容で外したらどうしよう」とか、「簡単な質問に答えられなかったらどうしよう」という心配が頭の中をかけめぐっていた。だからこそ、新人普及指導員の悩みは尽きない。普及指導員の誰もが経験することで、ほとんどの農業者は長い目で(普及指導員が経験を積むまで)見守ってくれるが、残念ながら、何年経験しても(年をとっても)ダメな場合もある。
先日、知り合いの普及センターの職員と、災害関連の普及活動の思い出話をした。「災害ネタは、若手の普及指導員にとって、怖いものではない」と話をしたら、「先輩(私)は何を言いたいのか、意味不明」という顔をするので、「若手普及指導員が災害現場に立っても、たぶんウエルカム状態だから大丈夫」と、余計なことを口走ってしまった。
想像していた通り、今回の水害もまた、山腹水路のダメージが大きいという。農地でさえ管理がままならない状態。里山を通る山腹水路となると、本線の維持管理は何とかなるとしても、周辺の農地や林地、原野などの管理は心もとない。耕作されなくなった農地は、その時点で保全管理がなくなり、災害に弱い場所になる。土砂が流亡し、法面近くにクラックが入り、被害が加速度的に大きくなった災害をこれまで目にしてきた。里山でも、豪雨の時には林道でさえおぼつかないのだから、路網(※)などひとたまりもない。関係人口が多かった時代は、林道や作業道の手入れが行き届いていた。高性能の林業機械により広範囲に伐採することはできるが、災害には対応しきれないのかもしれない。
※森林内の林道、作業道、作業路の総称
被災した地域の住民が取材を受けていた。「この土地には、もう住めないかもしれない」と。これが現実だ。被災者に、生活拠点をどこにするかと問うたら、多くは、悩みながらも利便性や災害リスクへの評価を優先する。次世代の生活を考慮すると、合理的な判断になるらしい。多くの農業者が生産活動から距離をおいて久しく、農村でも農作業が共通事項でなくなった。専業農家でさえ、他産業に就労する家族が一般的な姿だ。だから、災害は離農や離村の大義名分になる。水田の基盤整備を機会に、不換地を希望する地権者が多くなることと同じに思える。
しかし、農村や農業に対する魅力が失われてしまったわけではない。利便性や経済性だけが生活環境の良し悪しを決めているのではない。どんな場所においても、災害リスクはあるからだ。「移住先がただちに新天地になるわけではない。どこでも同じ」とは、かつて離村した人から聞いた話だ。農村の日常は厳しくも、包み込んでくれる優しさを感じる。これは農山村の時間の流れによるものだと思っている。
さて、農村から多くの「仕事」が失われつつあるとしても、単純に、それが悲しいと断じることはない。どこに住んでいても生活はあり、さまざまな生活用具が作られてきた。つる細工に限って言えば、縄文時代の遺跡から発掘されることもあり、生活のあるところに用具ができるという証になる。それも、今もって実用的な優れものだ。
農村は里山との一体的な生活が長いので、つる細工との関係性と=(イコール)と考えやすいが、いつまでも昔ながらの農村の生活ではない。普及員時代に見せてもらったつる細工が、生活用具から装飾品に変化し、つる細工の担い手が都市住民になったとしても、その価値観は変わらない。普及員時代、つる細工の編み込みだけなく、つる(皮)の採取から実践してみたいと思っていた。そこに里山があり、里山にはつる細工の原材料が自生していたからだった。
ヤマブドウを例にあげると、皮を剥きやすい特定の時期に採取して陰干しする。梅雨時期の山仕事は結構な肉体労働で、気温の上昇とともに虫も多くなる。最近では、獣との遭遇が心配のタネになる。現地で鬼皮を取り除き、目的の内皮を剥くのだ。次の工程は「ひご」作りになる。乾燥した皮は、数日間、水に浸して柔らかくする。柔らかくなった皮は「なめし」をして平らに広げ、目的の幅の「ひご」に切り揃える。私が参加するサークルでは、さらに、乾燥した「ひご」をローラーで平らにする工程を追加している。
つる細工のほとんどは型を使って編み込むが、小物の場合に型は使用しないこともある。編み方は、網代編み、市松編み、もじり編み(縄編み)などが多い。花結び編みは熟練者でないと難しく、乱れ編みは、製作者の技量でバランス感に差が出るらしい。いずれも唯一無二が、愛好者がつる細工を好む理由なのだと聞いている。最近は、ひと頃よりブームが下火になっているという。
時々、つる細工の展示会や即売会で、製作者として先輩普及員の名前を見かけることがある。他県でも同じ趣味のOBが存在するという話を聞くことがある。これらの情報に触れると無性にうれしくなってしまう。山に入ることができるうちは、つる細工を続けようと思っている。いつの日か、技量が相対的な水準になるだろうか?
●写真 上から、
・開花期のオオバギボウシ
・災害を受けやすい中山間地域の水田
・先輩普及員のつる細工
・先輩普及員のチャーム
あべ きよし
昭和30年山形県金山町の農山村生まれ、同地域育ちで在住。昭和53年山形県入庁、最上総合支庁長、農林水産部技術戦略監、同生産技術課長等を歴任。普及員や研究員として野菜、山菜、花きの産地育成と研究開発の他、米政策や農業、内水面、林業振興業務等の行政に従事。平成28年3月退職。公益財団法人やまがた農業支援センター副理事長(平成28年4月~令和5年3月)、泉田川土地改良区理事長(平成31年4月~現在)。主な著書に「クサソテツ」、「野ブキ・フキノトウ」(ともに農文協)等。