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ときとき普及【69】

2024年03月27日

農業の生産性(その1)


泉田川土地改良区理事長 阿部 清   


 前回のコラムで、最低賃金のことを記述したのは、普及活動で経営指導を行うようになった頃の普及センターで議論になったからだ。議論の内容は、経営試算する場合の雇用労賃のレベルだった。


 当時の農業者は、親戚筋の無償の手伝い(援農)の意識があった。農作業(ほぼ水稲のみ)は、何ものにも代えがたい存在だと考えている農業者が多かった。小学校で「田植え休み」や「稲刈り休み」などを経験している人は少ないかもしれないが、本当にあった話だ(田舎の小学校だけかもしれないが)。小学校では、年間行事に「ふき採り」や「ワラビ採り」、田んぼを荒らさないよう担任からきつく注意された「イナゴ採り」や「落穂拾い」があった。これに定番の運動会、スキー大会、遠足を加えると、私が通った小学校の年間行事のラインナップになる。


column_abe69_1.jpg 当時、小学校は地区において唯一無二で、教師は恩師(?)として絶対的な存在。小学生は学校に行くことが最優先と、地域全体で当然視されていた。現在よく見かける、親や家庭の都合で学校を休ませることなど、不幸事以外ではあってはならないことだった。平日に行楽地で見かける小学生連れの家族の姿は、時代が変わったとしか思えない。しかし、農繁期には小学校が休校になるぐらい、農作業は絶対視されていた。このような教育を受けて育ったのだから、農作業は何ものにも代えがたいものと理解できる。

 さらに時代を遡れば、「作男」や「若勢」を話題にする高齢農業者もいた。戦前の貧しい小作農が多かったからか、自作農が急増した普及事業発足当初の農村では、農作業に意識が高い農業者が多かった。農業者の思いは継続していて、「農作業」と「農業労働」は本質的には違うのかもしれないと、勝手に理解するようにしていた普及員だった。


 さて、雇用に現物支給はあり得ず、また、生産性が低いために高くも設定できないので、最低賃金が妥当ではないかとの結論になったのだった。この経験があるから、労働団体が2030年までに最低賃金を現状の1.5倍の1,500円を経済団体に提唱というニュースに敏感に反応した私がいた。農業ではむずかしいだろう、と。地域の他産業経営者は慢性的な人手不足を嘆いている。労働力の取り合いは賃金上昇に波及するとして、農業は蚊帳の外に置かれるのではないかと。なぜなら、賃金上昇に見合うだけの生産性の向上が、想像できないからだ。


column_abe69_2.jpg 平成の始めの頃、農業の現場では、経営移譲(60歳)直後の農業者は高齢者とは呼べないぐらい若々しかった。後継者を盛り立てながら、農業経営に参加しているのは少数派だったと思う。農村の昭和一桁生まれの高齢者は働き者といわれた存在だったが、経営者としては、必ずしも...だった。わき目も振らず働くことを美談とする風潮だったのは、稲作の単作地帯では、米価の水準と経済性が比例していることがベースになっていたからでもある。2、3ha以上の自作農は農作業に励めば家計を維持できたし、何がしかの財産形成ができたという、「食管法下の良き時代」の農業を経験してきたからだ。


 経営移譲された農業者の中には、家の農作業には見向きもせず、早朝から流行りのゲートボールに日参する父母の姿を見るにつけ、わが身に起こった不幸と普及員の私にくどく人もいた。一方で、ますます怪しくなってきた水稲を担う後継者の気苦労を顧みず、ニラなどの野菜類で手間稼ぎをし、時に農作業への手伝いを強要する父母の、あまりにも元気な姿にあきれ返っていることを、せつせつと私に語る人もいた。私は地域担当で、この父母が主体になっていることが多いニラなどの野菜担当の専門普及員でもあった。世代間の考え方の違いと軋轢に戸惑う普及員だと自認していたが、このことを普及センター内で議論することはなかった。

 農村の高齢者は、決して暇を持て余していたわけではなかったが、視点は遊休労力としていた。いまでは間違いなくハラスメントになりそうだ。当時は、高齢者の遊休労力を有効活用した野菜産地育成などの普及課題を普及計画で取り上げていた。普及センターだけでなく、関係機関・団体からも異論を呈されることはなかった。高齢者=リタイヤしたので暇だと、無条件に考える世の中の風潮があったのかもしれない。それでも、「いつまでも現役」、「軽自動車を運転できるうちは現役」などと説明すると、高齢者が多い集まりでは好感度抜群だった。ただし、「経営移譲後の子世代との関係の持ち方」を話してはいけない雰囲気を感じ取ることが多かった。


column_abe69_3.jpg 高齢者の労力活用による産地づくりは、最初にニラ産地で取り組むことになった。
 孫の登園から降園までの数時間勤務を機能的に組み合わせた勤務シフトを作成したり、今でいうところの高齢者サロン的な作業場を運営したりする農業者もいた。出来高払を最初に導入したのもニラ産地だった。作業場にニラ臭が充満すると、高齢者は目の粘膜が刺激されて痛いということから、作業環境の改善に真っ先に取り組んだのもニラ農家だった。夏場の昼下がりの作業場の暑熱改善のために、クーラーを導入したほどだった。もちろん、作業機を含む作業調整ラインの整備や効率的な栽培体系等の改善が前提になっていた。

 今になって考えれば、作業改善が生産性の向上に大きく寄与することにつながったが、当時の普及活動では評価の視点にはなっていなかった。しかし、高齢者の参画(労力活用)という論点で農作業の改善が進展し、生産性の向上によって産地が維持、発展したのは間違いない。ただし、労賃はといえば、前のコラムで記述したように労働生産性が低すぎたことから、十分とはいえない金額だった。後日、労働基準監督署の査察が入ることになるとは、思いも及ばなかった。


 ニラ経営は、高齢者の労力活用の小規模経営から法人経営に移行し、産地が拡大して来た。しかし、産地育成当初、多様な担い手であった高齢者がリタイヤしたら労働力不足の面で産地は縮小していくと、多くの関係者が認識していたのは、現実を直視すると当然の結果だと思っていた。ニラの一番刈り(春先の最初の収穫)が、生産原価を割り込むぐらい市場価格が低迷するのが常のことだったからだ。しかし、長く存続している産地は、何かしらの恩恵を受けることがある。それは、収益性に直接関係する市況が堅調になったことだった。ニラだけでなく、農作業全般に機械化が遅れている種類、または労働強度が強い種類の野菜の価格が安定するようになった。ニラ栽培は、選別、調製作業に機械化を行ってきたことから、経営改善に取り組んできた経営体は、市況の追い風を真っ先に受けることができた。


 最近、販売価格の高位安定があったとしても、労力不足のために加われない、スポットで雇用労力を活用してきた果樹が打撃を受けている。労働力不足で収益性が低下する心配は、昔はありえない話だった。パートをつなぎとめるために、あの手この手で努力をする経営者の話を聞くことがある。パートを確保できたとしても、市況と生産原価との隔たりは依然大きく、いまだ経営安定の兆しは見えないと語る果樹農家が多い。生産性の向上は、ある意味切ない課題なので大変だ。


●我が家の冬の家庭菜園(ハウス栽培)の定番になっている種類。
上から、
・コマツナ
・ホウレンソウ
・五月菜(クキタチ)

あべ きよし

昭和30年山形県金山町の農山村生まれ、同地域育ちで在住。昭和53年山形県入庁、最上総合支庁長、農林水産部技術戦略監、同生産技術課長等を歴任。普及員や研究員として野菜、山菜、花きの産地育成と研究開発の他、米政策や農業、内水面、林業振興業務等の行政に従事。平成28年3月退職。公益財団法人やまがた農業支援センター副理事長(平成28年4月~令和5年3月)、泉田川土地改良区理事長(平成31年4月~現在)。主な著書に「クサソテツ」、「野ブキ・フキノトウ」(ともに農文協)等。


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