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ときとき普及【68】

2024年02月28日

昔と今(その8)


泉田川土地改良区理事長 阿部 清   


 家の前の農道の除雪が始まっているが、ひと月以上も早い。雪が少なければ水不足、果樹の萌芽が早まり霜害が・・・と、心配は尽きない。


 昭和の時代、ほかの普及員のことは分からないが、自分の場合は、農家経営を意識した普及活動をおこなってはいなかった。「選択するのは農業者だ」という意識があったからだが、いつの間にか「この技術の普及は○○円の価値がある」が、普通になった。

 普及は技術を切り口に、生産性の向上などのシンプルな課題が多かったが、普及員が農業経済や農家経済に無関心だったということではない。JA(当時は農協)によっては、目標とする農業所得を農家に提案することもあった。農産物の売り上げ目標を、「△△を作ったら○○○万円取らせたい」と提案する営農指導員もいた。売り上げから逆算して生産量や品質の目標を導き出す論点整理で、生産したものを市場で売るという、昔ながらの流通に慣れていた自分からすれば、営農指導員を驚きの眼差しで見つめたものだった。


column_abe68_1.jpg 優秀な生産組織の農業者を表彰することは昔から行われていたが、その多くは反収を物差しにした評価だった。普及活動でも同様だったと思う。しかし、他県の「モモ、クリ推進運動」や「売上数千万以上で海外旅行プレゼント」などの話を聞くにつれ、表彰対象になった農業者の貢献を評価する物差しが面積当たりの指標だけでは物足りないと、営農指導員達と議論したこともあったが、「地域の農業や産地に寄与するのは生産性の向上に尽きる」という結論に至った。


 旧農業基本法の終盤になると、構造政策への対応が求められるようになった。村づくり運動が盛んに取り組まれた時代だった。そもそも、村づくり運動は、農村地域の振興を目的としたものではあったが、構造再編や産地育成等、多様な運動が展開されていた。時代背景は、農地のありようが地域農業の前提であるとの考え方が主流だったことから、「農地の担い手は地域を支える」の一択が、多くの人の考えだった。そのため、村づくりの主体は担い手であることが当然視され、ボランティア的な活動が責務とされることが多かった。村づくりの活動は、イベント的な事業が主体となっていくなど、担い手農業者にとっては悩み多き時代だった。


column_abe68_2.jpg 平成に入ると、普及事業でも農業経営(と農家経営)に本格的に取り組むことになった。長期間の経営研修のため、ビジネススクールに普及員を派遣したこともあった。農業者の所得を本当の意味で意識したのは、認定農業者の経営改善計画の審査会へ出席した頃だった。この制度は、100年に一度と言われた大冷害の平成5年に、農業経営基盤強化法において創設された制度のことで、育成すべき「効率的かつ安定的な農業経営」を目標に向けた経営改善計画が、市町村から認定された農業者のことを指すのは、誰もが知っている。


 認定農業者は他産業並みの、おおむね500万円の農業所得を目標にしていて、個別完結する複合経営農家にとっては高いハードルだった。経営改善計画を審査していると、相当無理をした経営計画を目にすることが多かった。当時、農業改良普及センターでは経営試算を数多く行っていたが、500万円以上の農業所得を得る組み合わせは難しかった。計算上、ふんだんに活用することが可能なスポットの雇用労働に依存することによって成り立つ経営モデルが多かった。まだ水稲の価格水準が高く、労働時間報酬が2,000円以上を期待できる時代だった。一方、複合経営の品目となる園芸品目は、驚くほど労働時間報酬が低い場合が多かった。生産性が低いということで、労働報酬が低い野菜の専門担当だった私は、他の専門担当から厳しい目を向けられることがあった。


 農業法人の改善計画を審査することもあった。一戸一法人の場合はことさら審査が厳しいという、当時の時代背景が凝縮されていた。法人の年金が厚生年金である場合は、農業者年金に加入できない(農業者年金は国民年金をベースにしているため)という、無理筋の指摘が、特定の審査員から寄せられることがあった。今では考えられない話だ。


 前回のコラムで100~120万円の所得のことを記述したが、このレベルの所得水準の場合、実現の可能性は一気に高まる。農村では100~120万円という数字が、よく登場するのだった。例えば、長期負債の償還金は100~120万円を基準に設定されることが多い。月10万円という、JA関係者と暗黙の了解が、この所得水準にある。なぜならば、100~120万円の所得目標は、単一部門で無理なく稼ぐことのできる金額で、バリエーションが豊富に存在するからでもあった。
 時には500万円の所得水準を提示することもあった。不可能な農業所得ではないが、できあがった営農モデルをイメージすると、切り詰めた農家生活に対する申し訳なさが残る普及員の自分だった。労働力を担う家族の誰かが病気や怪我をしてしまった場合、簡単に崩れてしまう営農モデルだった。相当な覚悟で臨まないと、暮らしを支える所得を獲得することができないことが多く、それは、生産性の低さに尽きるのだった。


column_abe68_3.jpg 野菜部門では、収穫後の選別、調整、箱詰めなどの軽労な作業に時間を費やす。これを単価の低い労働とし、技術力の必要な単価の高い作業とのすみ分けが、経営者にとって必要だ、などと普及活動していたことがあった。もちろん、軽労な作業は機械化や共同化で、十分償却できるし、生産コストの課題を十分に解消できると言っていたが、産地で実践されるようになるまでには、まだ多くの時間が必要だった。よくよく考えてみると、当時、生産性が比較的良かった水稲も、昭和40年代から30区画と3~5haの経営をベースにしていることから、生産性を語るまでに至っていないと間もなく指摘されるようになった。しかし、普及活動の現場では、ベースにしている技術体系の見直しの機運は少なかった。
 まして、野菜栽培では説明するまでもないほどの経営規模で、いわゆる手間稼ぎの期間が長かった。全国の野菜産地で大規模経営を実践している経営を見学することがあると、「これこそ生産性の議論がふさわしく感じる」も、「山形県には土地利用型野菜産地は根付いていないから」と、最初から生産性のことは諦めていた。


 この頃、山形県の最低賃金は500円だった。夫婦2人、年間4000時間の労働で500万円以上の農業所得は難しいだろう。現在は、最低賃金が1000円になっている都道府県が多い。労働団体は近い将来、1.5倍の最低賃金を経営者団体に要望しているという。農業と他産業の生産性の格差が拡大するかもしれない。しかし、生産性の議論だけではなく、農業は多様性で他産業と伍していけるのだと信じている。
 高齢者は年金に加え、可処分所得が100~120万円あると、老後の生活が安定する。農業はこのレベルの所得を得るバリエーションが多く、営農は高齢者の得意な分野に集約・収斂すればよい。夫婦二人がほぼ健康であれば、豊かな農業が実践可能だ。大きくとも小さくとも可能な産業が農業の特色なのだから。このことを付け加えるのを忘れないようにしている。


●写真上から
・農道を除雪するロータリー車
・融雪期になったネマガリダケ
・早春のタラノキの芽

あべ きよし

昭和30年山形県金山町の農山村生まれ、同地域育ちで在住。昭和53年山形県入庁、最上総合支庁長、農林水産部技術戦略監、同生産技術課長等を歴任。普及員や研究員として野菜、山菜、花きの産地育成と研究開発の他、米政策や農業、内水面、林業振興業務等の行政に従事。平成28年3月退職。公益財団法人やまがた農業支援センター副理事長(平成28年4月~令和5年3月)、泉田川土地改良区理事長(平成31年4月~現在)。主な著書に「クサソテツ」、「野ブキ・フキノトウ」(ともに農文協)等。


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