ときとき普及【45】
2022年03月28日
普及員の悩み(その5)
3月にもかかわらず、ゴールデンウイーク頃の気温という報道を目にすることが多くなったが、積雪地である当地域にとっては、今年は思いのほか厳しい冬であったように思う。降雪・積雪は面的な広がりはないが、至る所にその傷跡を残し、融雪時期になって、樹体の被害やパイプハウスの倒壊などの話をよく聞くようになった。住宅でも、屋根雪が滑落しない軒や庇の垂木が折れている光景を目にすることがある。多くは空き家で、過疎地域だけではない今風な現実問題を垣間見る瞬間だ。
個人的に、度を越した除雪・排雪作業は消耗すると感じることが、今年は多かった。作物の生育に直接関係がないから、除雪作業は除草作業より劣ると何度思ったことか。次第に気が滅入ってくる。誰しもが経験する、北国特有の感覚である。
さて、農業の「6次産業化」はその範囲を広げ、「農山漁村発イノベーション」と称することになったという。
「6次産業化」という語句は、新鮮で斬新な定義だと思っていたので、いささか寂しさを感じる。6次産業化は、多くの「めばえ」を創出してきた。よりどころにしていた農業者は多かったが、苦労も多かったと思う。「試作は目的意識を同じくできるが、次のステージの商品化の段階になると・・・。販売やセールスは、農業者には難しいのかもしれない。この段階で足踏みしたケースが多かった」とは、6次産業化サポートセンターの担当者の話だ。
やまがた農業支援センターでは、6次産業化の優良事例集を取りまとめて公表しているが、6次産業化の評価について問われることがあれば、「山形県内の各地に、数えきれないほどの『めばえ』を確かに残した」と、答えることにしようと考えている。事例の多くは普及指導員が関与していた。普及指導員の熱気あふれる研修会や講習会は、6次産業化の中の、普及活動の代表的なシーンだと思っている。もし、普及活動と6次産業化について問われれば、「食品加工、直売、農泊・・・、6次産業化の時代は、普及指導員が新たなスキルを確実なものにした時代だった」と答えたいと思っている。
野菜の主産地は農業者だけでなく、関係する営農指導員や普及指導員をも育てている。同様に6次産業化の事例もまた、農業者とともに普及指導員が育っていたと思っている。かつて、野菜を担当する普及員の活動の証として、「1億円以上の産地育成」が合言葉の時代があった。ただし、当時は、その普及活動で自分が育っていることを経験値として理解するという謙虚な気持ちは、露ほども持ち合わせていなかった。
山形県は落葉果樹産地で、オウトウの全国シェアが圧倒的に高い。サクランボは自家受粉しない品種が植栽されていて、受粉に適した春先の気象条件が、産地の広がりを制限していた。とくに、初夏に収穫される果肉が柔らかい白肉品種が主力であったことから、品質低下の課題があった。アメリカンチェリーの輸入自由化以降、加工用品種から生食品種へ転換するため、雨よけ施設の導入が急ピッチで進んだ。当時、改良資金の審査会に申請書類を満載した台車を引いて出席したが、農業者の圧倒的な意欲を感じたのは、後にも先にもその時だけだった。
サクランボは足が速い(荷痛みする)。流通に要する日数を劇的に改善したのは「宅配」の存在で、「ゆうパック」が草分けだった。翌日配達が拡大し、冷蔵流通のサービスが加わると、さらに遠隔地にも宅配できるようになった。1980年代に、果樹の研究担当が品質保持技術の開発を行っているのを横目で見ていたが、宅配サービスは、品質保持技術を凌駕するような流通技術だったと思う。
農業者の直販のシェア拡大は、山形県の農業におけるサクランボの地位を盤石なものに押し上げた。ベースになったのは品質向上技術の導入に間違いない。直販すればこその顧客へのクレーム対応により、品質向上技術が迅速に普及したのだと思っている。
ここでも、産地が動くから、また、拡大するから普及指導員のスキルが向上するという様子が想像できる。
以前、自らが農産物を販売する道を選んだ農業者がいた。私は野菜専門の普及員だったこともあって、農業者はJAなどの生産組織に加わることによって生産物の販売の多くを委託販売する、JAなどの職員が担うシステムに疑問を持つことがなかった。野菜は、産地として、一定量が必要だったからである。現在主産地になっている野菜産地は、完全共選共販が多いことも事実だ。多様な担い手農業者や新規参入農業者への調査によれば、営農指導や委託販売を行うJAに対する期待が高い。同時に、販売まで担う農業法人が、グループ化する動きもみられるようになってきた。
最近、米の販売代金が未回収になって、廃業せざるを得なかった稲作農業者の話を聞くことがあった。当初の少量取引の段階では、販売代金の支払いがあったが、取引を拡大したとたんに代金の回収ができなくなり、経営継続を断念し、他産業への転職の道を選んだらしい。地区を代表する稲作農家だった。
農業者にとって、自ら販売を行うことはハードルが高く、経営面ではコストが生じることが事実でもある。それでも、その道を選んだ農業者に対しては、エールを送りたいと思う。
普及指導員は、どのような普及活動を行うのだろうかと想像してみる。しかし、自分は確固たる考えを持ち合わせていない。
●写真上から
・最深積雪時の庭木の状態
・融雪期になると目につく樹体への被害

あべ きよし
昭和30年山形県金山町の農山村生まれ、同地域育ちで在住。昭和53年山形県入庁、最上総合支庁長、農林水産部技術戦略監、同生産技術課長等を歴任。普及員や研究員として野菜、山菜、花きの産地育成と研究開発の他、米政策や農業、内水面、林業振興業務等の行政に従事。平成28年3月退職。公益財団法人やまがた農業支援センター副理事長(平成28年4月~令和5年3月)、泉田川土地改良区理事長(平成31年4月~現在)。主な著書に「クサソテツ」、「野ブキ・フキノトウ」(ともに農文協)等。