ときとき普及【43】
2022年01月26日
普及員の悩み(その3)
ある冬の朝、家のそばの道路を通る除雪車の大きな音で目が覚めた。
昨夜はやけに静かだと思っていたら、案の定、新雪が多かった。
郷土の歌人、斎藤茂吉は、風のない夜に降り積もる雪の模様を「深々(しんしん)」という表現で短歌にしていた。
「深々」は、寒々としていて、静かに雪が降りつもる光景を思わせる。風には風音、雨が降れば雨音がある。しかし、雪には音の表現が思いつかない。「深々」は、すべての音を吸収した静かな様子をイメージした、ひらがなの「しんしん」だと個人的に思っている。
公用車を運転しながら普及活動を行っていると、降り積もる雪が雑踏の音を吸収するので、静かなドライブになる。こんな時、車外に響くエンジン音はいつもより小さく、絶え間なく動くフロントガラスのワイパー越しに、雪国の冬が深まったと思うことが多かった。強風が吹きすさぶ日本海に近い庄内地方に比べ、山沿いの内陸地方は静かな降雪が多い。こんな時には、斎藤茂吉の短歌を思い出しながら移動したものだった。
「除雪」の概念が今風になったのは、私が高校生の頃、昭和40年代後半になってからだ。農村地域に自動車が普及したことも一因だろう。それまで、雪は踏み固めるのが普通だった。屋根雪はカシキなどで雪下ろしをしたが、玄関先は掘り下げるのが一般的で、数段の階段がつけられた。
小学校への通学路は地区民が「踏み俵」で踏み固め、通路には雑木の枝を挿して、目印にしていた。冬季間の中学校へは、約4kmの道のりを徒歩で登校した。向かい風の吹雪は、すぐにズボンを凍らせるほど寒かった。1時限目の授業で、「凍ったズボンは、(亜炭や石炭が燃料の)ダルマストーブで乾かせ」と話した担任のことは忘れられない(当時、徒歩で登校する生徒と冬期寄宿舎に入る生徒の線引きは、ちょうど私の住む地域だった)。
春が近づくと、かた雪が格好の遊び場だった。山の斜面を黄色く染める杉の花粉が舞い散る場所でスキーに興じていたし、早春には笹竹で作った杉鉄砲(杉の雄花を充填剤に使用した、おもちゃの鉄砲)の弾ける音がしていたのが懐かしい。
冬には伐採作業が盛んに行われていて、木材を運搬する馬そりが動いていた。下校時に、馬そりにつかまって遊ぶのが楽しかったが、「馬に余計な負担がかかる」と、大人から真顔で怒られた。馬に雪靴を履かせていたことなどは、今では我々の年代しか知らない思い出でもある。当地区の農作業が農耕馬だった理由が、ここにある。多くの民家は曲がり屋で、玄関を入ると馬屋があり、つづいて「わら打ち」などを行う「うち石」が埋め込まれた土間になっていて、かたわらには「かまど」が配置されていた。馬は農作業と木材の搬出作業まで活躍することから、それは大事に飼育されていて、農業者の生活と一体になっていた。「かあさんの歌」(作:窪田聡)の歌詞は、実感があるがゆえに、雪国の冬の生活が心にしみてくる。この話を知人にすると、「どこの国の、いつの時代の話だ」とあきれられるが、「自分の育った地域の、少なくとも半世紀前の、誇張のない実話だ」と答えることにしている。
雪国では、積雪は災害と考える農業者が多い。
昔から、積雪地方は生産活動や農村生活において、降雪の問題があった。地域住民にとっては、降雪は不可抗力。受け入れることによって生活を継続していたが、降雪が災害として社会に認知されるようになったのは、昭和になってからだ。地元選出の故松岡俊三代議士の粘り強い政治活動によって、昭和8年に、新庄市に農林省積雪地方農村経済調査所(※)が設立されることになった。前年の昭和7年に内務省に設置された雪害対策調査会では「雪害とは何か」が議論されている。雪害地の決定根拠、霜害、雪利、雪害の応急対策と根本対策、世界各国の雪害事例調査、気象台による雪の調査、雪害地の認定官庁等を主な議論の対象として、当時から雪利(利雪)が除外されていたわけではなかったようだ。
※ 農林省積雪地方農村経済調査所:
通称「雪調」。昭和23年に農業経済分野を農業総合研究所積雪地方支所に改組、昭和58年には農業総合研究所本所に統合、同年、施設は新庄市が譲り受けて「雪の里資料館」として運営
研究員だった頃、「利雪」を研究課題としていたことがある。
研究開発では、冷熱エネルギーを農業へ利用するという研究目標だった。科学技術振興機構のRSP事業を活用し、雪の持つエネルギーを活用しようと計画していた。雪は断熱性に優れ、雪むろなどの貯蔵庫は相対湿度ほぼ100%、温度変化±0.5℃の優れモノの冷蔵施設だった。この施設を活用することで、長期間の貯蔵が可能であるばかりではなく、一部の青果物では、ビタミンCや糖などの栄養成分が増加するという効果が期待できることが分かった。「青果物の鮮度はビタミンCを尺度にすることが多いが、貯蔵することによって鮮度が向上する不思議な現象」だと、得意気にプレゼンしていたことがある。しかし、雪むろのハンドリングの悪さや、冷熱エネルギーは補充が難しいなどの課題があった。類似の貯蔵効果が期待できる氷温貯蔵庫の存在は知っていて、その大型施設が実用化されると、「雪むろ」への社会の関心は一気に萎んでしまった。
それよりも、数年の間に繰り返される雪害が現実的な問題だった。かつて取りまとめた「雪害対策ハンドブック」の編集には、自然に力が入った。雪国への定住に際しても、住宅の敷地内除雪や屋根雪の処理が最優先課題だった。今では、無散水融雪が社会インフラとして整備され、屋根雪の融雪装置が市販されるまでになっている。しかし、「利雪」は下火になり、観光誘客のための「遊雪」や「親雪」が残っている。たしかに、子供の頃の雪遊びは楽しかった・・・・。
農村地域では雪中野菜が生産されているが、それは、ごく一部の農業者に過ぎない。生産活動にとって、雪の評価は難しいが、生産活動が制限される点では、マイナス要素と考える農業者が多い。作期が制限されるだけでなく、施設園芸農家は、「施設の除雪作業に、午前中いっぱい費やさざるを得ない」と嘆いていた。「除草作業でさえ、作物の生育にプラスになるのに、除雪は・・・」を付け加えることを忘れていなかった。だからこそ、積雪地方の農業者は粘り強いと思う。積雪がどの程度関与しているかはわからないが、農業経営においては、頑固な一面を垣間見ることが多かった。ただし、一旦方向を変えると、モチベーションが維持できなくなる心配を、普及員的発想で感じていたように思う。
「雪国の曇天は、野菜や山菜の軟白栽培の栽培管理に最適な気象条件だ。根雪は病害虫をリセットしてくれる」と、懲りずにプラス面だけを考えることが普及員の仕事だと思っていた。しかし、雪のプラス面については、「否定はしないけれど賛成もしない」という考えを持つ農業者が多かったし、それが、悩みの種であった。
●写真上から
・真冬の農村、久しぶりの日差しに和む
・寒中は、神社はひっそり雪化粧

あべ きよし
昭和30年山形県金山町の農山村生まれ、同地域育ちで在住。昭和53年山形県入庁、最上総合支庁長、農林水産部技術戦略監、同生産技術課長等を歴任。普及員や研究員として野菜、山菜、花きの産地育成と研究開発の他、米政策や農業、内水面、林業振興業務等の行政に従事。平成28年3月退職。公益財団法人やまがた農業支援センター副理事長(平成28年4月~令和5年3月)、泉田川土地改良区理事長(平成31年4月~現在)。主な著書に「クサソテツ」、「野ブキ・フキノトウ」(ともに農文協)等。