きょうも田畑でムシ話【95】
2021年02月09日
粘菌――奇々怪々の彷徨きのこ
このところ、遠出を控えている。するとどうしても行動範囲が狭まり、いつも以上に足元の動植物を見ることになる。
ところがまだ寒いこともあり、「な、なんだ。こりゃ、驚いた!」と言えるものに出会わない。
すこしでも太陽の光を取り込もうとけなげに葉を広げるロゼット状の植物が「わたしたちを見て!」とつぶやいているような光景にはよく出くわすが、ほかにめぼしいものはない。
と思いながら出かけた植物園では、以前から見たかったシモバシラの霜柱を見ることができた。
「温度の低い時間帯でないと見られませんよ」
と教えてもらいながら、実際に着いたのは午後2時過ぎ。
だが、あきらめが悪い性分なので念のためと思って探してみたら、あったのだ。
おそらく、この冬いちばんの収穫になるのだろう。
左 :ロゼット状の植物にはけなげさを感じる。地面に張りつけば、やっぱり暖かいよね
右 :シモバシラにできた霜柱。いくらか解けているようだが、これが見られただけでも感謝だ
それはともあれ、冬にご近所の畑まわりを歩いて気づくのは、カマキリの卵が年々減っていることだ。
なかでも「オオジガフグリ」「オオジフグリ」といった珍妙なあだ名を持つオオカマキリのものが少ない。「オオジ」はご老人のことであり、「フグリ」は有名なオオイヌノフグリのフグリと同じものだからよく知られていよう。
桑の枝についたものを「桑螵蛸(そうひょうしょう)」として漢方に用いることは知っていた。念のため広辞苑を開いてみたら、オージービーフや大塩平八郎のあとに「おおじがふぐり」とあり、「おおじ」は「祖父」の意と記されていた。
若くして祖父になる人もいる。だから、ご老人とした方がいいのに、なーんて思いつつ、確認の意味で「祖父」はと引いてみれば老人、老爺ともあった。あわわ。天下の辞書サマにたてついてはならんことを、オオジは学んだ。
漢方の店でも「桑螵蛸」の入手が難しくなり、最近は粉末しか手に入らないとか。形がなくても本当にオオカマキリのものなのか、わかるのかしらんと首をひねりたくなるが、まあ、専門家にはわかるのだろう。
それにしても、オオジガフグリは見るからにけったいであり、奇妙であり、奇々怪々の物体だとは思う。
右 :「オオジガフグリ」のあだ名で知られるオオカマキリの卵。近所では見る機会が減っている
そして、そういえばと気になったのが粘菌だ。わが敬愛する南方熊楠センセイが強い興味を示した、あの粘菌である。
粘菌と変形菌というふたつの言葉が使われるが、どちらも同じとみてよさそうだ。どうやら、半々で使われているらしい。
「菌」とはいうが、細菌でも、きのこやかびといった菌類でもない。だからといって植物でも動物でもなく、アメーバの仲間とするのが現代人の見立てだ。
だったらどうして、そんなまぎらわしい名前にしたのか。
それは訳語が発端らしい。ねばねばしたかびを意味する英語の「スライム・モールド」が先にあって、それを明治時代の日本人が訳し、そのまま生き残っているらしい。
スライムといえば、粘土なのかゴムなのか液体なのかわからない、とにかくネバネバとろーりとしたけったいな代物が思い浮かぶ。
その意味では粘菌という、どっちつかずのものの名前にふさわしい。熊楠さんはいかにも大センセイらしく、「混沌たる痰」と呼んだ。美しい表現ではないものの、それっぽい感じはよく出ている。
左 :イタモジホコリの変形体。素人にはこんな感じのものがもっとも粘菌らしいし、魅了を感じる
右 :クダホコリの仲間だと思うが、辛子明太子のような、ジャンボタニシの卵のような......不思議物体だ
ここではとりあえず、粘菌と呼ぶことにしよう。その粘菌はさらに真正、細胞性、原生に3分類され、一般に粘菌と呼ぶのは真正のものだ。
真正粘菌は、成長のステージが変形体と子実体に分かれる。
子実体ならきのこ類でも使う用語だから、理解はできる。シイタケ、マツタケと呼んで食べている、食卓に上がる「きのこ」の姿が子実体だ。
粘菌は動くことで、独特奇妙な味をかもしだす。まさに、スライムの面目躍如だ。網目の上にネバネバべっちょりしたものが覆いかぶさった感じは、一度見たら忘れられず、悪いことに魅了される。
子実体の形状がすごすぎる。ドーナツや洋菓子のプレッツェル、チョコレートのトリュフを連想させるものまであって、大きかったら食べたくなりそうだ。それに色もいろいろで、ピンクがあればホワイト、イエロー、ブルーと変化に富む。
アメーバみたいなものといわれれば納得するが、見ていて動くところがわかるわけでもない。時間がたって、位置がずれているからそれと知るわけだが、それにしてもよく気づいたものだ。
左 :キサカズキホコリ。杯に見立てたのだろうが、どんな杯なのかな?
右 :ツツサカズキホコリ。これはたしかに杯形だ。大きければどこかに飾りたい
左 :タマジクホコリ。こんな感じのチョコ菓子があったような気がするなあ
右 :わが家の菜園に出没した粘菌。数日で消えてなくなった
粘菌は高多湿を好み、春から秋にかけて野外で見つかる。だが、雪解けのころに出現する好雪性粘菌というものまであるそうだから、季節はあまり関係ないのかもしれない。場所もさまざまで、わが家の庭でもそれらしいものを見つけたことがある。
そうはいっても、ベストシーズンはじめじめした梅雨どきだとか。ところがそのころになったらきっと、傘がいる、足元が濡れるからといって、探しに出るのを渋るだろう。そこでいまこの時期に、とりあえず考えるだけ考えておこう、まずはかつて撮った写真でもながめ、よくいえば予習をしておこうというさもしい魂胆なのである。
そこにあれば、きっと見る。それは確かだ。
だが、いや、いや待てよ。粘菌がアメーバ仲間だと考えると、「ある」というのはおかしい。
本来なら「いる」というべきだろうが、動く様子が認識できないと、あることはわかっても「いる」という気持ちにはなれないものだ。オートミール、ご飯つぶ、麩、パン粉などを与えればえさとして食べて増えるから、なるほど、「いる」がふさわしいのだが......。
まあいい。春はまだ実感できない時期だから、雪解け時に見られる好雪性粘菌などという高嶺の花を望むのはあきらめよう。
だから余計に、恋しくなる。
恋しい、恋しい。そういう気持ちで必死になって探せばいまでも見つけられるのだろう。だが、いかんせん、それだけの眼力がない。
とにかくズブの素人だ。アマチュア中のアマチュアなのだ。歩けども探せども、なかなか見つからない。
そんなとき、救世主が現れた。
といっても思い出話だ。たしか暑い夏だった。
「わたくしでよければ、お教えしましょう」
人品いやしからぬその御仁はそう言って部屋のドアを開け、外に出て、すたすたと歩きだした。そして見たところなんでもない雑木林に踏み入り、芝生のじゅうたんを歩き、雑草としか思えないものが生えているところにしゃがみこんで、探索を始めたのである。
そしておどろくことに、そのどこでも、こう言った。
「ほら、いましたよ」
落ち着いて穏やかな物言い。それだけになおさら、こちらは面食らう。
左 :公園の植え込み。こんな風になんでもない場所にも粘菌は現れる
右 :なんでもない草に「いた」ハイイロフクロホコリ。教えてもらうまで、かびとしか思っていなかった
なるほど、落ち葉にいた。まさかと思った草の葉っぱにもくっついていた。
ただ、なにしろ小さすぎる。このローガンと化したまなこでは、ここだと指し示されるまで、わかろうはずがない。
1ミリの10分の1ぐらいしかないようなミクロ生物が、ぐんぐん、わらわら、ぺろぺろと縦横に広がって、数千数万数百万もの巨大なからだに変身するのだそうだ。
ふえると聞いて反射的に頭に浮かんだのは、プラナリアだ。切っても切っても死なないといわれる不老不死のようなからだを持つ生き物だ。理科の実験で用いることもあり、カミソリでめった切りにされても、そのパーツのひとつひとつから頭が出ておしりを生やし、元のとぼけ顔のプラナリアに再生する。
右 :下のプラナリアは頭(右側)を再生中。その横をとぼけた表情の1匹が通り過ぎようとしている
この粘菌という得体の知れないものも、あんな風にふえるならまだわかる。
だがこいつらは、そうではない。単なる不思議どころではないのだ。網を広げ、かぶせ、母屋を乗っ取るようにして自分たちの領土を広げていく。細胞内の核の分裂は半端ではなく、おそろしく増殖する。
多核単細胞というものだと説明される。それはつまり、細胞がひとつということだろう。どんなに巨大化しても1個の細胞であるということだろう。それでなければ、看板に偽りありだ。
とくるとここで突然、筑波山の四六のがまの話になる。「さあさ、お立ちあい」に始まる、あのがまの油売りの口上である。
手にした刀で白紙を切る。1枚が2枚になり、それを切ると4枚になり、4枚が8枚、8枚が......とどんどんふえていく。まさに、アレと同じふえかたをするようである。
しかしそんなにふえてどうなるのだろうとお節介を焼きたくなるのだが、これまた奇怪なことに、それらがくっつけばまたひとつになるという。
プラナリアを半分に切ると、遺伝的に同じふたつの個体に分かれる。だが、それをくっつければ再びひとつの個体に戻るなんてことはない。
してみると粘菌の方がプラナリアよりも優れているように思えるが、これらのふたつの話をごっちゃにしてはアカンのだろうね。
粘菌は、動物みたいなきのこみたいな生き物だという人もいる。
そう聞けば、足の生えたきのこを思ってしまう。さまようきのこだ。
そうはいわれるものの、粘菌はきのこもかびも食べてしまう。きのこ、かびは森の分解者だから、それを食べるということは分解者を分解することになる。
ああ、ややこしい。でもそうやって粘菌は、それらがふえすぎて森が消滅しないようにバランスをとる調整役になっているのだろう。
左 :腐り始めたわが家の粘菌にダンゴムシが寄ってきた。なるほど、こうしてほかの生き物の食料になるようだ
きのこ、かびを消費する一方で、粘菌は植物に窒素を供給しているという研究報告もある。
だからトビムシやダニ、ナメクジなどほかの生き物のえさになる。死ねば土壌に溶け込んでいろんな生き物に利用される。
へえ、粘菌はすごい。えらいのだった。
さらに驚くことに、そんな粘菌を食べるニンゲンも存在するのだ。
メキシコの某地域ではススホコリの仲間をトルティーヤに包んで食べ、料理名を日本語に直すと、「月のウンコ」になるのだとか。
粘菌にはお笑いのセンスも備わっている。
たにもと ゆうじ
プチ生物研究家・作家。 週末になると田畑や雑木林の周辺に出没し、てのひらサイズのムシたちとの対話を試みている。主な著書に『週末ナチュラリストのすすめ』『ご近所のムシがおもしろい!』など。自由研究もどきの飼育・観察をもとにした、児童向け作品も多い。