提供:(一社)全国農業改良普及支援協会 ・(株)クボタ


ぐるり農政【104】

2015年11月27日

生産者偏重に逆戻りするのか

ジャーナリスト 村田 泰夫


こんな揶揄をご存じだろうか。霞が関にある8階建ての農水省の一角に「消費者の部屋」があるが、あとはすべて「生産者の部屋」ばかり。そんなことはないと信じていた。ところが最近、農水省をからかう揶揄が当たっているのではないかという思いにかられるニュースがあった。


murata_colum104_3.jpg 環太平洋経済連携協定(TPP)の大筋合意に際して、国内の農林水産業に与える影響について、農水省が発表した文章に驚いた。「国内産農産物の価格下落が懸念される」という言葉があふれていたからである。

 たとえば「コメ」について。「輸入米の数量が拡大することで、国内のコメの流通量がその分増加することになれば、国産米全体の価格水準が下落することも懸念される」といった具合である。麦、牛肉、豚肉、乳製品についても「価格下落の懸念」が連呼されている。

 「懸念」とは生産者サイドに立った価値観のこもった言葉の使いかたである。消費者サイドに立った言葉を使えば、価格下落は「恩恵」である。農水省は生産者のためだけの役所ではなく、国民のための官庁なのだから、かたよった価値観の入らない中立的な言葉を使うべきではなかったか。実際のところ、ほとんどのマスコミが「食料品の価格下落」をTPPのメリットの一つに挙げている。

 誤解を招かないために、急いで言葉を補っておかないといけない。筆者は「農産物価格は下がれば下がるほどいい」といいたいわけではない。無条件に、農産物価格が下がれば「懸念」で、上がれば「歓迎」という言葉を無神経に使うことに違和感を覚えるだけのことである。


murata_colum104_2.jpg 農水省は長い間、農家など生産者のための官庁だった。そのほころびが表面化したのが2001年に日本でも感染した牛が発見されたBSE(牛海綿状脳症)である。いわゆる狂牛病ともいわれ、感染した牛肉を食べれば人間の健康にも影響する恐れが指摘され、大騒ぎとなった。原因とされる肉骨粉を餌として与えないように国際機関から指摘されていたのに、監督官庁である農水省が一片の課長通知による行政指導で済ませていたことから、農水省の行政に強い批判が集中した。


 なぜBSEの発生を防げなかったのか。BSEに関する行政の問題を検証したのが第三者による「BSE問題に関する調査検討委員会」(高橋正郎委員長)である。2002年4月にまとめたその報告書は画期的だった。
 審議会などの報告書は、事務局(担当官庁)が案文を作成し、委員の内諾を得て公表されることが一般的だ。BSE調査検討委員会は、案文の下書きの段階から外部の委員が作成した。だからであろう。随所に、行政関係の審議会や委員会の報告書では目にすることのない字句がある。農水省の対応を「重大な失政」と言い切ったのも、その一例。農政の政策決定過程の不透明さは、「農林関係議員が強力な圧力団体を形成し、生産者優先の政策を求めてきた」ことが助長させたと明記した。

 また、「日本の法律、制度、政策、行政組織は、生産者優先・消費者保護軽視の体質を色濃く残し、消費者保護を重視する、農場から食卓までのフードチェーン思考が欠如している」と指摘した。


murata_colum104_1.jpg ここがポイントである。農水省は、自民党を中心とする農林族議員や農協など、生産者団体などから要求される「生産者優先の政策」を聞き入れてきた。その結果、生産者偏重の体質が染みついてしまった。BSE問題をきっかけに、政策判断の軸足を生産者から消費者に移す改革を、BSE調査検討委員会は求めたのである。

 その結果、2003年になって内閣府に「食品安全委員会」が設置され、農水省に「消費・安全局」が誕生した。「農政の軸足を消費者に移す」と、BSE問題発生時の武部勤・農水相が大見えを切ってから12年。少なくとも生産者と消費者を農政の車の両輪としたはずの農水省は、いつのまにか再び生産者偏重の行政に逆戻りしてしまったのだろうか。

 BSE問題発生時の農水事務次官だった渡辺好明氏は、こう言う─「売」という漢字の旧字は「買」の上に「士」が乗っている。買うという字があって売るという字ができた。当然である。商品生産は消費者があってはじめて成り立つ。買うという行為を前提に生産と販売を考えないといけない。


 丹精込めて作った農産物が高く売れることを生産者が望むのは当然である。農産物の価格は、他の商品と同じように、需要と供給の関係によって決まる。天候不順で野菜の生育が悪く収穫量が減れば価格は高騰し、逆に豊作なら価格は下がる。海外から安い農産物が輸入されれば供給過剰で価格は下がる。それは海外産と同じ農産物を作っているからである。海外産より優れた農産物を作れば、価格競争に巻き込まれなくて済む。


 消費者など実需者が購入を判断する条件には、価格も大きな要素だが、味や安全性といった品質も含まれる。競争をきっかけに、消費者のニーズに応じた農産物を作ることに励むことで、生産者は少しでも高く農産物を売れるようになる。競争はピンチであるが、消費者のニーズをつかむチャンスでもあるのだ。(2015年11月24日)

むらた やすお

朝日新聞記者として経済政策や農業問題を担当後、論説委員、編集委員。定年退職後、農林漁業金融公庫理事、明治大学客員教授(農学部食料環境政策学科)を歴任。現在は「農」と「食」と「環境」問題に取り組むジャーナリスト。